『修訂 絹と立方体』・『声と三稜鏡』

架空の文字の大図典

 副題に「架空の文字の大図典」*1高山宏氏が昨年の『UP』誌10月号で、

世界全部の神代文字から最近のマンガの中に登場してくる人工文字まで一挙網羅、掛値なしの一代奇書の、アマチュア学者に固有の狂的な徹底と網羅に圧倒される。想像通り日本トンデモ本大賞特別賞。(中略)この非売本、草の根わけても探索博捜に値する。

(21頁)と大絶賛。私も文字マニアなので垂涎の的でしたが、無事に『修訂 絹と立方体』とその続編『声と三稜鏡』を入手しました。内容の細目はコチラを→ 絹と立方体修訂版/内容Untitled Page
 同封の「広告『絹と立方体』」の文言もなかなかステキです。「絹と立方体 なしに学会や黒ミサは開けません。」「秘儀伝授、完全犯罪、宮廷恋愛、耽美主義生活、民族独立運動、その他のための 絹と立方体。」等々。

「架空」と「実在」のはざま

 それにしても、ここにある文字群は「架空」であることは間違いないのですが、架空の文字として実在している、という何やら逆説的なところが心地好い眩惑を誘います。SFやファンタジーのうち、「異世界」を舞台にしたものの場合、その異世界の住人が英語のアルファベットや漢字を駆使していては具合が悪い(会話は英語や日本語で行なわれていても誰も咎めないのとは対照的に!)ということで、架空の文字は物語中の世界を成り立たせる装置としてちゃんと機能する。
 SFはフィクションということが了解されているから、架空の文字の架空性はまだ明白ですが、17世紀フランスの裁判に提出された「悪魔の契約書」には「当時の悪魔の契約書についての俗説の通り、右から左へ裏返しのラテンアルファベットで綴られている」(『修訂 絹と立方体』、704頁)ということで、実際に物的証拠として採用されてしまう。これらを「架空の文字」と単純に言えるのかどうか。
 実はこれは現代的な問題でもあります。「架空の文字」を「実在の文字」にしようとする運動が、某国においては国家ぐるみで行なわれていることを暴露した「その他の「古朝鮮の文字」」(『声と三稜鏡』187〜190頁)には瞠目しました。

実に架空の文字も実在の文字に負けず劣らず歴史的・政治的存在であると言える。いやむしろ「理想の共同体」の幻を背負っている分、余計にタチが悪いかもしれない。

(『声と三稜鏡』、186頁)

補足

 これも一応、架空の文字といえるのではないか(実態は文様ですが)ということで、本書の補足を。ただし、全てに目を通しているわけではないので、どこかで紹介されていたらすいません。
 山東京伝の「牛の涎」です。

うしのよだれ」「やつぱりおらんだ/文字た」(牛の涎 やっぱりオランダ文字だ)、『小紋雅話』より。

蛇足

 「ギャル文字」についての以下の考察がよかった。「呆れた文化」(ギャル文字 - Wikipedia)という一般の評価はあまりにも皮相的です。

興味深いのは、元の文章を想起しにくい表記法ほど気持ちがこもっている、とする価値観である。元の文章が想起しにくくなればなるほど、文章の書き手も読み手も文字の構成や形を一々たどらねばならなくなる。常識的に考えれば意思疎通の効率を下げるうっとおしい表記法ということになろうが、ここでは普段我々が目にしてはいてもちゃんと見てはいない文字の形や組合せの様式を別様に再認識することの新鮮さ・面白さが重視されている。その提示の仕方に手間が掛けられていればいるほど、また奇抜であればあるほど評価されるのである。これは明らかに詩的言語の異化の手法と一致しており、「詩は死んでなんかいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ」という都築響一の厳しい指摘はここにも傍証を得ることになる。

(『声と三稜鏡』12頁)日本古来の「葦手絵」にも似たような発想があったかもしれません。

*1:なお、『修訂 絹と立方体』附章2「近代諸元号現象・改」では、架空の「年号」も扱っています。