『大乗起信論』――熏習

 読書百遍義自ずから通ず、と言いますが本当にその通りだと思う。古典は繰り返し読んでこそ意味があります。

大乗起信論 (岩波文庫)

大乗起信論 (岩波文庫)

 
 『大乗起信論』に目を通したのはこれで三度目(百遍のうちのまだ三遍!)。初めて読んだのが99年8月(レシートが残っていました)。全く理解せず、途中で放棄したはずです。当時、「如来蔵」や「アーラヤ識」といった大乗仏教の基本中の基本の事柄をまだ知らなかったと思いますので、無謀でした。
 二度目は04年7月。ちょうど Cask Strength を始めた頃で、このエントリ(「己・已・巳」 - Cask Strength)を書いた時ですね。井筒氏の『意識の形而上学』を読むにあたって、多分、最初から最後まで(無理して)通読したと思います。
 この頃には、法相や仏性のことを少しは把握していたのではないかという気がしますが、何も得られるものがなかった。唯識的にいえば、要するに熏習が全く足りなかったのです。容れ物がないところに水は入らないのは当然。
 そして三度目。なんというか、ここ一二年の熏習によって、『大乗起信論』を興味深く思えるようになったかといささかの感慨を禁じ得ません。見えるものが変わってくるのでしょうね。たとえば、『華厳経』を部分的にぽつりぽつり読んだからこそ、『大乗起信論』で、

三界は虚偽にして唯心の所作なるのみ

(41頁)と、『華厳経』の「三界唯心偈」にそっくりなものが出てきて軽く驚くわけです。法蔵が『大乗起信論義記』を著わすなど、華厳宗で『大乗起信論』が尊重されたのも納得できます。
 でも、おそらく、この三度目の読書でも『大乗起信論』をちゃんと理解したわけではなく、むしろ、井筒氏前掲書を理解できるようになった、というのが真実かもしれません。

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)