「寸陰」と「分陰」
ぼんやりしていて今まで気づかなかった当たり前の事実に気づいた時の「なんてこったw」感はいつも何ともたまらないのですが、ついさきほども『晋書』陶侃伝を読んでいて、その気持ちを味わいまして。
常語人曰、「大禹聖者、乃惜寸陰。至於衆人、当惜分陰。豈可逸遊荒酔、生無益於時、死無聞於後、是自棄也」
この台詞の最初の部分は、「常に(陶侃が)人に語って言うには、『大禹(夏の禹王)のごとき聖人であっても「寸陰」を惜しんだ、普通の人などは当然「分陰」を惜しむべきだ』」ということになる。
このように「寸陰」「分陰」と並んでいるのを見て、「寸」とか「分」って長さの単位じゃないか・・・w と、バカバカしいほど単純なことに気づいたわけです。
よって、「寸陰」「分陰」は「短い時間」という意の類義語ではあるけど、同義語ではない。十分=一寸なのですから、感覚的には「分陰」のほうが「寸陰」よりもさらに短い時間を指すことになる。陶侃伝の用例は類義語で言い換えたのではなく、
大禹のごとき聖人であっても短い時間(寸陰)を惜しんだ。普通の人などは当然その1/10ほどの短さの時間(分陰)をも惜しむべきである。
ということになるのだろうと思う。
「釐陰」とか「毫陰」という表現は普通には出てこないようですが!
というわけで、今度から「寸陰惜しんで頑張っています」ではなく「分陰惜しんで頑張っています」という努力アピールをすることにします。惜しんで頑張ってないけど。