中国人が初めて読んだ「和文」の文献は何だったのか

 先日来、明の時代の貴族が『源氏物語』を読んだ云々というツイートが話題になりました(残念ながら、その元のツイートは削除されてしまいました)。
 『源氏物語』が大陸に輸出され、それを明人が読んだとは到底考えられないのですが、そもそも前近代の中国人が読んだ最初の「和文」の典籍って何なんでしょうね。
 日本人の著作が海を渡り、大陸で受容されたという例は確かにあって、このあたりは王勇氏や田島公氏等の得意とする分野かと思うのですが、私も少し関心があって折に触れて調べていることです。その最も古く、かつ、最も有名な例は、聖徳太子撰(太子の作ではないという説もある)『勝鬘経義疏』が唐土にもたらされ、法雲寺の明空という僧がその末注『勝鬘経疏義私鈔』を作った(『大日本仏教全書』所収。https://books.google.co.jp/books?id=5A7e1Tw-IAIC&hl=ja&pg=PA379#v=onepage&q&f=false)という件ですね。士大夫層とは異なり、当時の大陸にあってコスモポリタンな精神を持っていたのは仏僧たちであったと想像されるので、唐土の仏僧が東夷の国の皇太子が撰録した論書を尊重したのもよく理解できるのです。『高僧伝』等には同じ東夷の国である新羅の仏僧の伝があり、その著作がよく学ばれていたことがわかりますし。しかし、まあ、これは稀有なケースです。『勝鬘経疏義私鈔』末尾に、我が国律宗中興の祖である叡尊が感激の気持ちをこめて「右彼鈔者、大唐高僧之製造、日域面目之秘書也」(https://books.google.co.jp/books?id=5A7e1Tw-IAIC&hl=ja&pg=PA421#v=onepage&q&f=false)と讃辞を書いたのも、滅多にないことだからでして*1
 ただ、日本から大陸にもたらされた典籍は、聖徳太子勝鬘経義疏』『法華義疏』から始まって淡海三船『起信論注』や石上宅嗣『三蔵讃頌』、源信『往生要集』や慶磁保胤『日本往生伝』等々、基本的には「漢文」で書かれたものばかりです。そりゃそうだろう。「和文」で書かれていても中国人は読めないのですから・・・
 しかし、たとえば元末成立の『書史会要』に「いろは・・・」が紹介されていますし、「和文」の存在はかなり古い時代から彼の国の士大夫層にも知られていたはずなのです。いろは歌のような片言隻句ではなく、大陸人が目にした最初の和文の文献は何なのか、気になります。

*1:念のためにいえば、「日域」とは日本のことです。