井波律子氏『鑑賞中国の古典14 世説新語』と『世説新語』(平凡社東洋文庫)

 このたび『世説新語 2』(平凡社東洋文庫)が刊行されたのを機に、東洋文庫版と井波氏の旧著『鑑賞中国の古典14 世説新語』(角川書店、1988年)との関係についてご紹介いたします。

世説新語1 (東洋文庫)

世説新語1 (東洋文庫)

世説新語2 (東洋文庫)

世説新語2 (東洋文庫)

世説新語 (鑑賞 中国の古典)

世説新語 (鑑賞 中国の古典)

 原文、読み下し文、注、日本語訳、そして評釈、という東洋文庫版のスタイルは鑑賞中国の古典版を踏襲したものです。スタイルが同じだけでなく、鑑賞中国の古典版で取り上げられているエピソードに関しては、ほぼ同文のままで東洋文庫版に取りこまれています。
 もちろん、仔細に比較すると、異同が多く認められ、東洋文庫版刊行にあたって井波氏が旧稿を全面的に検討し直したことがわかります。
 鑑賞中国の古典版で「身長七尺八寸(一メートル八〇センチ)」(33頁)とあるものが東洋文庫版(第1巻)で「身長七尺八寸(一メートル九〇センチ)」(63頁)と訂正されているものは、わざわざ計算し直したのでしょう。
 「晋の陸翽の『鄴中記』(説郛本)に、「錦に…大明光・小明光…あり」とみえる」(鑑賞中国の古典版、109頁)が、「『太平御覧』(巻八一五。布帛部・錦」に『鄴中記』を引き、「又た曰く、織錦署は中尚方に在り、大登高、小登高、大明光、小明光、大博山、小博山……」とある」(東洋文庫版第2巻、153頁)に差し替えられたのは、より信頼できるテクストを引いたということでしょう。
 「二八〇(太康元)年呉が滅亡したあと」(鑑賞中国の古典版、179頁)は「咸寧六年(二八〇)、呉が滅亡したあと」(東洋文庫版第2巻、410頁)に。順序としては、呉の滅亡→咸寧から太康に改元、なので、東洋文庫版の記述のほうがより正確です。
 以上のような細部に至るまで修正が施されていることは注意すべき点だと思います。気づいたところで一点だけ、これはいかがなものか、と思ったのは、上記東洋文庫版第2巻410頁に「張翰は「江南の歩兵」と呼ばれたことからもわかるように」の部分でして、この「歩兵」が「阮歩兵」つまり「阮籍」のことだとすぐにわかる専門家ならともかく、一般の読者のためには、やはり鑑賞中国の古典版のように「張翰は「江南の歩兵(阮籍)」と呼ばれたことからもわかるように」(179頁)と注記すべきだったのではないかと。
 今回『世説新語 2』を拝読していて興味深かったのは、竹林七賢の一人、向秀の扱いでした。

 竹林七賢の描いた人生の軌跡も、まさに人それぞれであった。先条で見たとおり、嵆康は気位の高さとやむにやまれぬ反逆性のゆえに、ついに刑死の憂き目にあった。阮籍は理念的反抗をつらぬきつつ、酒で韜晦してとにもかくにも生命をまっとうした。あらわれ方こそちがえ、この二人は竹林の精神を終生忘れず、現世における身の栄達を度外視しつづけたのである。大酒飲みの劉伶(任誕篇三、六参照)と阮籍の従子で琵琶の名手だった阮咸(任誕篇一〇参照)および嵆康と親しかった向秀もこのタイプに属する。
 山濤と王戎はこれと異なり、後年、官界に入って大いに活躍した。なかでも山濤と王戎西晋王朝の重臣となり、その出世ぶりにはめざましいものがあった。(以下略)

東洋文庫版第2巻、312頁)
 二つ目の段落、文章が少しおかしいことに気づきましたか?「山濤と王戎は・・・なかでも山濤と王戎は・・・」、この「なかでも」がおかしい。もとの鑑賞中国の古典版の文章と比べてみると、事情がよくわかります。

 竹林七賢の描いた人生の軌跡も、まさに人それぞれであった。先条に見た通り、嵆康は気位の高さとやむにやまれぬ反逆性のゆえに、ついに刑死の憂き目にあった。阮籍は、理念的反抗を貫きつつ、酒で韜晦してとにもかくにも生命をまっとうした。あらわれ方はちがうが、この二人は竹林の精神を終生忘れず、現世における身の栄達を度外視し続けたのである。大酒飲みの劉伶(任誕篇??参照)と、阮籍の甥で琵琶の名手だった阮咸(任誕篇?参照)も、このタイプに属する。
 他の三人、山濤、王戎、向秀はこれと異なり、後年官界に入り大いに活躍した。中でも山濤と王戎西晋王朝の重臣となり、その出世ぶりにはめざましいものがあった。(以下略)

(鑑賞中国の古典版、146〜147頁)「他の三人、山濤、王戎、向秀は・・・中でも山濤と王戎は・・・」、つまり旧著では向秀は阮籍らとは異なるタイプに属する者として扱われていたわけです。それが新たな東洋文庫版では阮籍らのタイプの側に「移籍」しました。それに合わせて直すべきであった「中でも」は、うっかり直し忘れてしまったということになるらしい。
 向秀の立場の変更には微妙な点が考慮されたようです。『晋書』(巻49)の向秀伝によると、「郡計」(後述)から「後為散騎侍郎、転黄門侍郎、散騎常侍」(中華書局本1375頁)と歴任したとありますから、「官界に入」ったのは事実です。しかし、本伝ではその直後に「在朝不任職、容迹而已」(朝廷では職務に励むことはなく、官籍をおいていたのみであった)とあるので、「大いに活躍した」わけではなさそうです。
 また、最初に出仕した時に、晋の太祖をヨイショするようなことを言ったのが問題になります。その会話は『晋書』にも、『世説新語』(言語篇)にも記録されていますが、せっかくなので、『世説新語』で引用しましょう。

 嵆中散(嵆康)が誅殺されたあと、向子期(向秀)は郡の上計の吏に任用され、洛陽にやって来た。司馬文王(司馬昭)は引見し、たずねて言った。
 「きみには箕山の志(隠遁の志)があると聞いていたが、どうしてここにいるのか」
 向子期は答えた。
 「巣父と許由は片意地な人物であり、敬慕するに足りません」
 文王は大いに感嘆した。

東洋文庫版第1巻、160頁)巣父と許由は、伝説的な聖帝、堯の求めに応じずに隠遁したわけですから、ここはつまり、司馬昭を堯になぞらえ、嵆康ら自分たち竹林の士を「片意地な」巣父や許由になぞらえているわけです。司馬昭は大喜び。
 しかし、向秀の真意はどこにあったのでしょう。その後の「在朝不任職、容迹而已」という生き方を考えると複雑です。井波氏はこのエピソードについて、以下のように評釈して向秀に同情しています。東洋文庫版での向秀の「移籍」の背景を知ることができる言です。

・・・このエピソードでは、しゃあしゃあと転向した自己の弁明につとめているが、これも身を守るための窮余の一策だったのだろう。乱世において、生命をまっとうすることはまったく難しい。ちなみに、向秀は出仕後も、ただ官に身を置くだけで、なんら積極的活動を行おうとはしなかった。七賢グループの王戎や山濤が出仕後、司馬政権の重職につき、手腕を発揮したのとは、およそ異なる生き方だった。

(同上)
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