「或はそうかも知れない。まあそう云うことにしておこう」

 目下、注釈のお手伝いをしています。これがなかなか大変です。従来の注釈がいい加減なことを言っているということがわかっても、いざそれを批判して新たな解釈を示そうとすると実際には難しいことが多い。
 未詳、未詳・・・というのは学問的態度として妥当だとしても、それで注釈の役目を果たしていることになるのかどうか。
 こういうときに心の支え(?)になっているというか、いつか使ってやろうとひそかに思っているのが、この記事の表題にもひいた青木正児『新訳 楚辞』(現代仮名遣いに改める等の修訂が加えられて『世界文学大系 中国古典詩集』に再録されました)の一節です。
 『楚辞』はどの篇も難解なのですが、「天問」の最後のほうは該当する故事が未詳であるために朱子も匙を投げた箇所です。

・・・恐らくさうでなく、是もやはり一つの故事であらう。ただ其れは未だ詳らかでないので、此の章の意味はさつぱり解らない。

是も何の事か解らない。蒋驥は云ふ、是は楚の開国の賢君を歴叙したのであらうと。或はさうかも知れない。まあさう云ふことにしておかう。