歌の途中で切れる古筆切

 後藤重郎氏旧蔵書が名古屋大学附属図書館に後藤文庫として入っていて、そのうち古筆切120点全てが電子化されて公開されていることを先日教わりました。さっそくブクマしました。
 http://info.nul.nagoya-u.ac.jp/cgi-bin/wakan/wa.cgi?q=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8F%A4%E7%AD%86 (←「後藤古筆」の検索結果)
 御覧の通り、『新古今集』の断簡が多い。極札も見られて大変素晴らしいです。
 これを紹介するだけで本日のネタとしては十分でしょうけど、つらつら拝見して一つ思ったこと。
 周知の通り、古筆切は何といっても書としての鑑賞がメインですから、文字の配列や空間構成、料紙の色、またはそもそもの原本(特に冊子本だった場合)の作りなどの都合で、文章のまとまりを無視して切りとっていくことが多々あります。このような古筆切を鄭重に手鑑に貼りつけていったかつてのコレクターたちにとっては「誰々の書」というのが最も大切なことで、それがどこの歌集の誰の歌かということは副次的な問題であったというのは、大筋ではその通りだと思います。
 http://info.nul.nagoya-u.ac.jp/wakan/kohitsu/0003.html後鳥羽院のあの水無瀬川の歌がああああ、と昔人はならなかった(らしい)。
 でも、私などは(悪い癖かもしれませんけど)やはり歌や詞書が途中で切れていると気になるので、旧『国歌大観』正・続をかたわらに置いて、どのような歌なのかを確かめながら、へーとかほーとか唸るのが常です。
 そういう立場から今回目をひいた切は、http://info.nul.nagoya-u.ac.jp/wakan/kohitsu/0027.html (解説:http://info.nul.nagoya-u.ac.jp/cgi-bin/wakan/wa.cgi?i=192)でしょうか。
 最後、西行の「いづくにも住まれずはただ住まであらん」という上の句だけが残っていますが、「柴の庵のしばしなる世に」と続く下の句*1が実は有名な部分で、「まことに柴の庵のただしばしと、かりそめに見えたる御やどりなれど・・・」(『増鏡』新島守)「又は柴の庵のしばしなる世中のわすれかたみにもやとかりねの枕をしやりて・・・」(『かりねのすさみ』)等々、引歌として各書に利用されるところです。
 どうなのでしょう。これを残念な展示方法だと捉えるか、それとも、隠されていることで却ってその部分が暗示されて趣があると感じるか、そこは人それぞれかもしれません。

*1:穂久邇文庫本等は「しばしある世に」に作る。ツレの発見が待たれます。