平子鐸嶺の「常世長鳴鳥」の説

 常世の長鳴鳥といえば、天の石屋に籠ってしまったアマテラスを誘い出すために神々が準備したもののなかの一つとして登場するものでして、具体的に何の鳥か明示しているわけではないのですが、漠然とニワトリのようなものを想像する方が多いようです。しかし、それが「常世の」とか「長鳴」となると、はて、どういうことか、となるわけです。
 早世した天才的な美術史学家・平子鐸嶺が、その亡くなった年(明治44年、1911年)に朝日新聞に「常世長鳴鳥」と題するエッセイを寄稿していたことをこの間知りました。結論からいうと、『西京雑記』に出てくる「長鳴鶏」のことで、今でいうシャモのようなものだというのです。きちんと調べたわけではありませんが、おそらくは研究史的には非常に早い指摘だと思われますので、注意を促す次第です。
 一部を引用いたします(『東京朝日新聞』1911年1月9日、第8面)。

 予が試みに提出する長鳴鳥の説は、寧ろ甚だ奇抜に過ぎたるの感あり、取捨は読者の意見に任せむ。とにかくも六朝の書たる『西京雑記』に、

成帝(漢)時交趾越嶲。献長鳴鶏伺晨鶏。即下漏験之晷刻無差。長鳴鶏則一食頃不絶。長距善闘。

といへり。交趾安南の地方には、かゝる一食頃不絶の長鳴をする特別の鶏ありしと見えたり。(中略)察するに田道間守は支那大陸の南部なる極温暖の地方へ渡りたるに相違なし、かく考へ来るときは、交趾安南地方もまた往時の常世国の部に当然はいるべきこととはなるなり。今もし我『神代紀』の常世の長鳴鳥が、往昔交趾に居りし長鳴鶏なりしといふことを得ば、その奇なるに驚かるゝ心地せざるにもあらず。(中略)素人考へには、『西京雑記』に「長距善闘」といへる上にておせば、まづ暹羅国より輸入されたりといふなる、シヤモの類かとも思はるれど、たゞこれが長鳴といはるべきか否かは覚束なし、よろしくその道の識者の考定を仰がむ。

 そして、シャモの輸入は近年おこなわれたことではない。『鳥獣戯画』の闘鶏の場面に出てくる鶏はシャモの姿ではないか、といい、

もしかゝる闘鶏が常世国渡来の善闘の鶏によりて起れる風習なりと(或は邦人が闘鶏を好むによりて常世国より善闘の鶏を輸入せしとにも)想像するを得ば、『神代紀』なる長鳴鳥の名はいよ/\この新解釈を加へらるゝに至る可し。

と結ぶのです。