今週のお題「最近おもしろかった本」

今週のお題「最近おもしろかった本」
 久しぶりにはてダの「今週のお題」をやってみるよ!
 とりあえず文字通り最近のものを。

国文学研究法 (放送大学大学院教材)

国文学研究法 (放送大学大学院教材)

 中野孝次は『すらすら読める徒然草』の「おわりに」のさらに後、文字通りの最末尾に「テキストと参考文献」という一章を置いて、自分が何を、どう参照してこの本を書いたかを明記している。それはただ参考文献の書名を掲載しているだけではない。自分の言葉で参照した度合い、つまりどれくらい自分の血肉となったかを書いているのである。このような内面吐露とも言える文章が末尾に付いていることで、読者にとっても、『すらすら読める徒然草』が血の通った文学書として、身近に感じられる。
 現代人が、古典を詳しく深く読もうとする時、どうしても何らかの注釈書や研究書を座右に置くことになろう。しかし、研究論文や学術的な注釈書は、字数の制限もあって、研究した成果に力点を置いた結論を提示する。一般的には、研究成果に至るまでの自分自身の研究上の試行錯誤や、参考文献の選択に至る経緯までは書けない。しかし、実は、そのようなことこそが、文学書をどう読むかということに関心を持つ読者にとって、ひいてはこれから研究に志そうとする場合、貴重な肉声となるのである。

(71頁)
 我が意を得たり、というのはこのことです。
 凡例あるいは末尾に見られる参考文献が単なる「一覧表」になっているもののなかには、たまに「それちゃんと参照していないだろ(中身を理解し、納得していたらこんな論旨になるはずがない)」というのがありまして・・・。文献の「案内」になっている本を見ると、嬉しい(「『〇〇』は浩瀚な著述であるが、得るものは少なかった」等々のマイナス評価があれば、なお良い)。そういえば、ある文献を引用するに際して「『〇〇』は××本より引用した」という断り書きはよく見かけますが、なぜそのテクストを底本としたのかという理由を明らかにしたものは(これも字数の制限はあるのでしょうけれども)なかなか見かけない。
 前述した島内氏の言からすれば、本来は『すらすら読める徒然草』を今回のお題で挙げるべきだったかもしれませんが、そもそも『すらすら読める徒然草』は未読であることと、『国文学研究法』自体に「研究成果に至るまでの自分自身の研究上の試行錯誤」を語っているいわば自伝的記事が散見されたので、本書を選びました。たとえば、第1章に書かれてあることでいえば、中学・高校の授業で『徒然草』に触れた時からその研究を志したこと、秋山虔氏より「師の説に泥まざる事」ということばを聞き、江戸の学者のことばだろうと思って宣長の『うひ山ぶみ』を調べたが見出すことはできず、結局『玉勝間』が出典であることを発見したこと、そしてその『玉勝間』で宣長が『徒然草』を酷評しているのを読み、「なぜ宣長がここまで『徒然草』を批判しなければならなかったのか、いつの日か、突き止めてみたいと」(16頁)思ったこと・・・
 各章の「引用本文と、主な参考文献」にも、たとえば「本章で言及した部分のうち、『邪宗門』の再版で誤植が訂正されていることが判明したのは、『芥川龍之介作品集成』に拙稿が再録されるに当たって、新たに研究調査した結果である。再録にあたり、その部分を補筆することができたのである。論文を書き上げて発表した後も、折に触れて、そのテーマに関する探究を持続することが、さらなる研究の進展をもたらすと思う」(56〜7頁)等々と有益なアドバイスが見受けられます。
 みなさんも「研究上の試行錯誤や、参考文献の選択に至る経緯」を語ってみませんか?