「闌干として、魂、飛揚すと見えたり」の「闌干」

 いつものようにパラパラーと目を通しているだけです(だから学力が上がらない)。
 一箇所、「ん?」と気になる箇所がありました。ただし、底本(内閣文庫蔵半井本)を見ていないので何ともいえない。 なので、今回の記事は備忘録(宿題)みたいなものです。

四鳥の別れをいたし、魚にあらざれども、懸魚の恨みを抱く。闌干として、魂、飛揚すと見えたり。

角川ソフィア文庫、163頁)この「懸魚」(底本「剣魚」の由)も気になるのですが、それはともかく、本文校訂注によると、この「闌干」は、

「闌干として」は、底本「欄干ト云」。流布本に従い、正す。

(同書257頁)
 なるほど、「云」はこのままではおかしい気がしますが、「欄干」はどうか。
 木へんと手へんは写本ではほとんど区別がないので校異を示すこともほとんどありません。もし半井本が「欄」のように書いてあったとしても書写者としては「攔」として書いた可能性もあるでしょう(上述したように底本を直接見ていないのでなんともいえないのですが)。だとすれば、「攔干」は、言うまでもなく「長恨歌」(那波本『白氏文集』)に

玉容寂寞涙攔干
梨花一枝春帯雨

とある通り。ちなみに『古文真宝前集』では

となっていますしね(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0075/bunko11_d0075_p0084.jpg)。校注者による「正す」はやや大袈裟で、「攔(欄)干」でもいい(闌干でもいいのですけれども)のではないかと思われます。