志賀島

西日本新聞より。

志賀島福岡市東区)の北部沿岸で二十日朝、最初に発生した震度5強地震は、福岡沖地震の余震域の南東端が震源とみられる。ただ、余震はその後、海の中道(同)と能古島(同市西区)の間の博多湾で続発。九州大地震火山観測研究センターは「福岡沖地震で崩れた断層の端の破壊が進み、余震域が南東方向にさらに五キロほど延びたとみられる」と話している。
本震から一カ月後に最大震度の余震が発生したことについて、気象庁は内陸や内陸に近い地震としては珍しいと説明。一方、同センター長の清水洋教授(地震学)は、「余震発生は活発期と平穏期を繰り返し、長期に及ぶ。本震よりマグニチュード(M)が1くらい小さい余震は一カ月後でも起こりうる」と話す。

おれおれさん、みなさまがご無事で何よりです。
最初の地震玄界島付近が震源ということで、馴染みのある島だったわけですが、今回の余震も志賀島の近くで起こり、日本史にゆかりのある名前が続々とメディアに登場しましたね。
志賀島で急に思い出したことがありまして、宮崎市定『謎の七支刀』(中公新書)の記述について、いまだに解答を得られていないものがあるのです。ご承知の通り、志賀島からは、「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土していますが、

もちろんこれに対して、金印は後世の偽作ではないか、という疑問もたえず提出されている。私が第三高等学校教授であった折の同僚、といっても大先輩にあたるが、古文書学では第一人者と称せられた中村直勝教授もその一人であった。私がこの金印についての意見を求めると、教授は事もなげに、「あやしいな。なんせ、ほんま物が二つもあるんやで」と答えられた。金印の真物が二個存在するとは、聞きずてならぬ発言のようだが、ただし、それなりの理由があることは、私にも後になって分った。昭和五十五年八月、京都高島屋において朝日新聞社の主催により、「邪馬台国への道」展が催されたが、その折の注意ぶかい観察者ならば、なにかしら、はてなと気づくことがあったはずである。ただ現今の私としては、これ以上にはなにもいい足すことはできない。  (6−7頁)

・・・何でしょうか、この思わせぶりな書き方は?
この辺りの事情に詳しい方のご教示をいただければ。