唐詩に見られる「睡眠」の用例数――諸本に出てくる用例の処理に苦悩する件

 先日、論文や発表資料によく出てくる「『〇〇』という語の用例数は〇〇例」という文言に対して、とある大先生が至極当然なことを指摘されていて、要するに「君はそれどうやって数えたの?」、その裏には「用例数を挙げるというのは、どれだけ大変なことか自覚しているの?」(もっと言えば、用例数に何の意味があるの)ということになるわけで、これはもっと周知されるべきだと感じました。
 そのとき思い出していたのは、私自身の苦い失敗談、師の原稿を校正していたときの苦しかった作業、そして直近に読んでいた本のことでしたが、今回はその直近の読書を取り上げます。つい先日紹介した『仏教漢語50話』です(「生苦」と「未知生」 - Cask Strength)。
 「睡眠」の語について論じる際に、興膳氏は「睡眠」の用例として杜甫「茅屋為秋風所破歌」を挙げた後に、

唐詩において、管見の及ぶところでは、この他に「睡眠」の用例はただ一つしかない。

(99頁)とおっしゃいます。この「ただ一つ」がクセ者です。
 寒泉の全唐詩検索を利用しますと、たしかに「睡眠」の用例は二つしか出てきません。

 恐らくは興膳氏もこれを確認したことで上のような言い回しになったのではないでしょうか。もちろん、実際にはわかりませんが。
 しかし、困ったことに、唐詩には以下のような例が出てきてしまうのです。白居易「暁眠後寄楊戸部」(四庫全書『白香山詩集』巻三四)。

一覚睡眠殊有味 無因寄与早朝人

「一たび覚めて睡眠殊に味有り、早朝の人に寄与するに因無し」――睡眠から目覚めると非常に味わいがある(気持ちが良い)。この気持ちを早朝に仕事に出ている人(楊戸部)に分けてあげたいがその方法がない。
 問題は、ここに出てくる「睡眠」が、他本では「暁眠」になっていることです。全唐詩で検索できなかったのはそれが原因。「暁眠」ならば「朝寝から目覚める」となる。どちらが正しい本文か。
 今回の場合は四庫全書本の本文の分が悪いということは否めません。そもそも四庫全書本は必ずしも善本とは言えず、善本ではない本にのみある本文を採用することは普通はないでしょう。
 しかし、本当にそれでいいのでしょうか。私が当該例の「睡眠」にひっかかるのは、この詩の作者が白居易だからです。御承知の通り、白居易は仏教に対する信仰心篤かった詩人で、よく仏教的境地を詠み、仏教語を詩に使っています。だとすれば、ここも「睡眠」である可能性はもっと考慮されて良いのではないか。そう考えると、「暁眠」は詩題に引きずられての改変ではないのか。いやいやもしこれが仏教語だとしたら・・・等々、いろいろとグルグル考え始めるわけです。
 たった一つの用例でこれだけいろいろと考えなければいけないとしたら、たとえば「50例」とか出てきたらどうするのでしょう。一々検討するという労力を費やしたでしょうか。数を挙げることにあまり意味があるとは思えない、というのはそういうことです。
 学者というのは校異を挙げることに並々ならない努力をする生き物でして、諸本が多いと校異だけで精根尽き果てるということがあるのですが、その同じ人物が用例数を挙げるときは索引を引いたり検索をするだけで済ませてしまうことがあるのを拝見すると、これは一体どうしたことかと驚かされることがあります。