続・『平安朝の生活と文学』の「編集部注」――六条御息所の霊と、現代の憑き物おとし

結構あるのかなと思いきや、ざっと通覧した限りでは3箇所に付されたのみでした。見落とし御容赦。

http://d.hatena.ne.jp/consigliere/20120113/1326457923

 一個見落としていました!ごめんなさい。

さて生霊・死霊はいわゆる怨霊であって、『源氏物語』に、六条御息所の生霊が葵の上にとりついて殺し、同じ人の死霊が紫の上にとりついて殺したように(*正しくは、危篤に至らしめた)、産前・産後の婦人とか、病身な人とかにとり入って、苦しめ、ついに死に至らせるものです。

(299〜300頁)
 葵の上は「殿の内人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげていといたうまどひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ」(「葵」)と、本当にあっけなく亡くなってしまうのですが、紫の上の場合は、「絶え入りたまひぬ」「日ごろはいささか隙見えたまへるを、にはかになむかくおはします」と、危篤状態に陥り、一旦は絶命するのですが、

いみじき御心のうちを仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらにあらはれ出で来ぬ物の怪、小さき童に移りて呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。

(「若菜下」)霊がよりましに乗り移ったことで息を吹き返します。
 以下は、C・ブラッカー氏『あずさ弓――日本におけるシャーマン的行為――』(岩波現代選書。後、同時代ライブラリーに収録(未見))より。

 『源氏物語』の「若菜(下)の章で、病んだ紫の上に、子どもの霊媒を使って治療する場面があるが、この紫式部の描写はおそらく彼女の日記の記述と同様に、事実に基づくものであろう・・・この憑きものおとしの方法は今でも日蓮宗で行なわれている・・・日蓮宗は昔から、宗派の聖典である法華経に基づく憑きものおとしの伝統を誇っている。この実践は主に、千葉県の法華経寺を本山とする中山門流の僧によって行なわれる。しかし、ここでは陀羅尼や霊媒を使う憑祈祷の方法はほとんど棄てられ、祈祷師と患者が直接に対決する方法がこれに代わっている。しかし、金沢の法光寺には古い方法が今も残されている・・・(以下略)

(291〜293頁)この後に、現代の憑き物おとしの実践が描き出されます。