『文字弁嫌』



(『正倉院古文書影印集成 十三 続修別集巻三三〜五〇』268〜269頁)

本文 第9紙20行(l.20は第10紙にまたがる)、第10紙3行(l.3「論界」)。
   第8紙l.14「●」の上方に墨抹あり。l.18右行「姑」の上方は「姑」(同字)を墨抹。

(前掲書解説65頁)

(略)其の書写年代は天平十八年か又は十九年以後と推定せられる。筆者は誰であるかわからない。
 文字弁嫌とはどんなものかといふに、其の名によつて察すれば、意義又は形態の類似した文字を挙げて、其の区別を説いたものらしい。現に、最初の部分などは、さう解する事が出来る。又「凡一千字」と註してあるのを観れば、此処に写したのは其の一部分に過ぎない事勿論である。然らば、此処にあるのは、其の最初の部分だけであるか、又は、或特別の文字だけを抜き出したものであるかといふに、概して文字が四字づゝ一行になつて居り、殊に最初の行の下に「物无頭曰兀」云々とあつて、一々其の字義を註したのをみれば、もとの儘に写したやうにも思はれるが、大部分が普通見馴れない文字であるのを思へば、或は珍しい文字だけを抜萃して備忘の用に供へたのではあるまいか。とにかく、これを写したのは写経生などの業であらう。
 更に考ふべきは、文字弁嫌といふ題の下の方に「通俗文伏虔」とある事である。漢の伏虔の通俗文は、古く初学者に漢字を教へる為に用ゐられたもので、我が国にも伝はつて居たが(宇多天皇寛平年間の著なる日本国見在書目録にも見えてゐる)今は支那にも日本にも絶えて伝はらない。此処に通俗文の名を挙げたのは、文字弁嫌が通俗文の中か又は附録にあつた為かとも思はれるが、又「物无頭曰兀」云々の文が通俗文の一節ではあるまいかとも考へられる。かやうな事は、まだ決定する事が出来ないが、若し此の中に通俗文の逸文があれば勿論の事、さなくとも、通俗文の名が奈良朝の文献に見えるのは注目すべき事である。又、文字弁嫌の中の漢字の字体や反切は、字形や字音の研究に資する所あるべきは言ふまでもない。

(南京遺文解説、七六〜七九頁。『南京遺文附巻・南京遺芳附巻』36頁)

 最初の二行も、裏の校帳(『大日本古文書』は後一切経校帳とするが然らざるか)と一連のものであると思われるので、表題に「天平十八年三月二十三日校生手実」とあるのはやや適当ではない。筆蹟からみれば、この校帳の筆者は辛国人成かと思われ、文字弁嫌とは異筆であろう。文字弁嫌は『大日本古文書』巻二ノ四九七〜四九八頁。校帳は巻二十四ノ三五四〜三五五頁に収める。

(南京遺文解説補注、『南京遺文附巻・南京遺芳附巻』73頁)