「全て」ということ
- 作者: 山下久夫,斎藤英喜
- 出版社/メーカー: 森話社
- 発売日: 2012/09
- メディア: 単行本
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(金沢英之氏「神話から現実へ」180頁)
「その営み」というのは、宣長が『古事記』から「古伝」を再構築する営みということです。
もちろん、この文章自体は何の問題もなく首肯されることなのですが、もし試験の解答にこう書かれてあって、揚げ足取りの好きな教員が採点をしていたら不正解にされかねません。
(『訂正古訓古事記 下』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2578742/15)「十三丁一行目、赤線で囲った「免寸」、訓みを記していないではないか!」なーんて言われたりして・・・相当な意地悪ですね。
実はここは『古事記伝』の段階からよみが与えられていない箇所でして、宣長は、
免寸河、免ノ字は決(ウツナ)く写シ誤リなり、然れども其字未ダ考ヘ得ず、(中略)されば、訓べき由も無ければ、姑ク訓ミをも闕(カキ)つ、
(『本居宣長全集 第十二巻』筑摩書房、139頁)
近代の注釈書でも、たとえば『訂正古訓古事記』を底本とした日本古典文学大系『古事記 祝詞』、およびそれを承けた岩波文庫本が、この「免」の字の横に「?」をつけるという異例の体裁になっています。
(日本古典文学大系本、283頁)
本題はこの川の名前ではなく、要するに、「全て」とか「専ら」、あるいは逆に「皆無」などというのは、やはりインパクトの強いことばだと思います。学生さんが論文やレポートでこれらの言葉を使うときは、十分に気をつけたほうがいいでしょう。先日採点したレポートのことと、当該論文のことを思い合わせたところです。