宮城県内出土の漆紙文書や木簡が県文化財に

 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201403/20140304_15011.html
 いずれは国の重文に指定されるでしょう。↓県の公式発表。
 県指定文化財の答申について(pdfファイル)
 なお、多賀城発掘現場の概観については、以下のパンフレットがわかりやすく、オススメです。
 多賀城跡 発掘調査のあゆみ2010(pdfファイル)
 当該文書(正式には「多賀城跡外郭西地域中央部(金掘地区)出土漆紙文書第96号文書)と木簡の写真は、新聞記事よりもこちらのほうが鮮明ですね。
 漆紙文書といえば、平川南氏『漆紙文書の研究』(吉川弘文館、1989年。架蔵は1999年第2刷)が古典的業績として不朽の地位にあります。
 以下、主に本書を参照しつつ、記事の内容を少し補足いたします。

国内で最初に確認された漆紙文書

 上の第96号文書のことです。内容は計帳。この文書を1973年に発見した時の様子が『漆紙文書の研究』の「まえがき」に生々しく再現されていますので、長いですけど引用してみましょう。

 一九七〇年の夏、宮城県多賀城跡政庁西南部の発掘調査で、難物にぶちあたった。(中略)
 連日の干天続きで、乾ききった地面に張りついた皮状の遺物を、その土壙の一つから発見した。刷毛で丁寧に土を取り除いてみると、三〇センチ四方以上もある。みな一様に「なんだろう?」と首をかしげたが、とにかく慎重に取り上げておこうということになった。その不可解な遺物は皮製品として土を付けたまま整理箱に収納され、プレハブ倉庫の片隅に置かれ、しだいに忘れ去られてしまった。
 次の機会が再び訪れた。一九七三年、政庁地区の西方約三五〇メートル地点のまた土壙内から、土師器坏の内部に付着した状態で同様のものが出土した。
 現場から青ざめた顔で、調査員の一人が事務所に駆け込んできた。手にした土器のなかにはちょうど"サルノコシカケ"状のものが付着している。「文……、文字が書いてあるんですよ!」と手渡された土器をのぞいて、一瞬、わが眼を疑った。墨痕鮮かに、鋭い筆致で人名そして年齢が連記されているではないか。瞬間、頭の中は"正倉院文書の世界"に入った感がした。「戸籍かな、計帳かな。どちらだろう?」。土器の口径約一五センチの内に文書断簡の大きさは縦約九センチ、横一三センチで、わずか六行しか記されていない。しかし、行を読み進めると、「別項」の文字が眼に飛び込んできた。戸籍と計帳を見分ける決め手となる「別項」が記載されていた。二重の"ラッキー"である。(中略)
 計帳発見から五年後、それら*1の断片の中に同僚が苦心の末、発見した「月」の一文字が、八年前の皮製品にも文字があるのではないかと、やっとその関連に気づかせ、さらになぜ、こんな形で遺存したのかなどと、次から次へと考えを発展させたのである。同僚の考古学者たちの"もの"に対する執着ははた目にも凄まじいばかりであった。ここに、漆と紙の関係が解き明かされたのである。

(1〜3頁)「別項」の文字、写真で確認できましたか?四行目にあります。

多賀城の創建年(724年)を裏付ける木簡

 この言い方はやや言葉足らずで、もう少し正確にいえば、「多賀城碑に記されている「神亀元年」(724年)が、多賀城の造営に着手した年ではなく、完成した年だと言えそうな状況を示唆する木簡」ということになります。参照、CiNii 論文 -  多賀城の創建年代--木簡の検討を中心として

蝦夷の首長が国府多賀城を焼き打ちした反乱(780年)の鎮圧に当たった朝廷の軍団が兵糧を請求する文書

 第1号、第3号、第12号文書等のことです。第1号文書に貼り継がれた2、3、4、24号文書もこれに関連するものでしょう。記事には写真がありませんので、とりあえず第1号文書の写真を『漆紙文書の研究』よりお借りします。

(口絵図版6。スキャナがうまく作動しないのでデジカメで)
 二行目、「宝亀十一年九月廿」の文字列は割と見やすいですね。一行目の下の方には「合十箇□」とあります。上の部分がこの写真では判然としませんが、復元したかたちの釈文(25頁)によると、ある月の九日から十八日にわたる十日間、ということで、この文書全体としては軍毅である上毛野朝(臣)某が公糧を請求したものになるらしい(詳しくは、総論第一章二、総論第三章二、三など)。
 

*1:1970年に発見された「皮状の遺物」と似たもの