「引用」と判定すること
ある文章がほかの文献の直接引用であると証明することは結構難しい。別の文献の孫引きだという可能性が常にあるからです(参照、出典論 - Cask Strength)。
しかし、今回報道された、出雲市の波迦神社の棟札に『出雲国風土記』の「引用」が見られるという一件は、それ以前の問題を抱えているように思えます。
天文20年の棟札は、十二所権現の社殿を造営した際に作られ、「日本武命此社峯天降坐」「建部郷開志給ひて」などと記されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/local/shimane/news/20170524-OYTNT50266.html
同市は、斐川町三絡などを示す建部郷の説話は同風土記の出雲郡健部郷条でも見られ、同様に「峯」「天降坐」の表現があるため、同風土記の写本を見ながら書いたと推測している。
(読売新聞)
高橋周・市文化財課専門研究員は「風土記独特の表現を用いており、神主が風土記を閲覧したか所持していたことを示唆している。写本をどう入手したのか今後、研究する必要がある」と話す。
https://mainichi.jp/articles/20170525/k00/00e/040/242000c
(毎日新聞)
「この社の峯に天降り坐して」と墨書されている点が、風土記の「其の山の峰に天降り坐しき」という記述と酷似しており、同課は「風土記を踏まえて書かれた可能性が高い」とみている。
http://www.sankei.com/region/news/170525/rgn1705250008-n1.html
(産経新聞)
現時点の報道では全文が明らかになっていないので、以下の記述は報道で明らかになっているものを踏まえての話だとお断りしておきます。
実際の『出雲国風土記』(出雲郡健部郷)はこうなっています。
健部郷。郡家正東一十二里二百廾四歩。先所以号宇夜里者宇夜都弁命、其山峯天降坐之。即彼神之社、至今猶坐此処。故云宇夜里。而後改所以号健部者、纏向檜代宮御宇天皇勅、不忘朕御子倭健命之御名、健部定給。爾時、神門臣古弥健部定給。即健部臣等、自古至今猶居此処。故云健部。
「日本武命此社峯天降坐」「建部郷開志給ひて」という表現と、この『出雲国風土記』の表現を比較したとき、「風土記を踏まえて書かれた可能性が高い」と説く勇気は私にはありません。そもそも「峯」に「天降坐」したのは「宇夜都弁命」であるし、健部郷を設置したのは景行天皇ではないですか。また、地名自体は後世長く残っていたのだから言及されること自体は別に不思議なことではありませんし、健部郷を「開」いたという表現は『出雲国風土記』には出てきません。
「天降坐」という表現に関しても、神社の遺物に墨書されていたというのであれば、まずは祝詞に出てくる「天降」(「出雲国造神賀詞」など)とか「天降坐」(「中臣寿詞」)といった例を想起すべきで(つまり、それくらい普通の表現)、『出雲国風土記』の「引用」ということを持ちこむべきでしょうか。
しかし、実物を目にしたわけではないので、市や専門家は報道されている以外の何かしらの根拠をもって主張しているのかもしれません。詳細な報告が俟たれるところです。