「おもう」「思う」「想う」
いつも楽しく拝見している毎日ことばですが、今回の「なぜ新聞は「想う」を使わないか」と題する記事には少し「おもう」ところがありました。
「想」はかつての当用漢字表でも今の常用漢字表でも「ソウ」の音読みだけが掲げられています。常用漢字表は2010年に改定され、「鑑」に「かんが(みる)」の訓が認められるなど一部音訓も拡大しましたが、「想う」については依然認められていません。
http://www.mainichi-kotoba.jp/2017/05/blog-post_27.html
したがって、少なくとも学校では「想」に「おも」という読みは教えていないはずです。新聞は基本的に義務教育で学ぶ範囲内の漢字を心がけていますから、「想う」は認めていないことになります。
(中略)
歴史的には「おもう」に「想う」の字を当てることが一般的になったのは、それほど昔からではないようです。大野晋さんの「古典基礎語辞典」には「おもふ」「おもい」などの項で膨大な用例が集められていますが、ほとんどが平仮名か「思」です。わずか1例「想ひ」があるのみでした。
常用漢字表になくても漢文の授業でたとえば「雲想衣裳花想容」と出たら「雲には衣裳を想ひ、花には容を想ふ」と学ぶのでしょうから、杓子定規に考えなくてもいいと思うのですが・・・
まあそれはともかく、常用漢字表で「想(おも)う」の訓を認めていないので、その表記はとらないのだ、で止めておけば、それは一つの立場としてわからなくはないのに、「歴史的には」といい出したからには一言申し上げなくては。
『古典基礎語辞典』が何を挙げているのかわかりませんが、「おもう」(おもふ)という和語に「想」字をあてた最古の用例『万葉集』の3例を無視しているのでしょうか。
吾屋前尓 生土針 従心毛 不想人之 衣尓須良由奈
(巻七・1338)「我がやどに 生ふる土針 心ゆも 想はぬ人の 衣に摺らゆな」
不想乎 想常云者 真鳥住 卯名手乃社之 神思将御知
(巻一三・3100)「想はぬを 想ふといはば 真鳥住む うなでの社の 神し知らさむ」
たしかに、「一般的」かと問われれば、一般的な用法ではありません。『万葉集』中に「おもふ」は750例くらい使用されていると思うのですが、そのなかの3例に過ぎませんからね。(突然ですが、ここでクイズ。『万葉集』で「おもふ」にあてた漢字のうち最も多いのは何でしょう*1)しかし、芭蕉の例を挙げて、ほら芭蕉も使っていないではないか、というのはミスリーディングな書きぶりではないでしょうか。少ないかもしれないけれども、この用字はメジャーな作品にも散見されます。そういう意味では一般性はあったといえます。
眉の間の白毫の、一つの相を想ふつべし 須弥の量りを尋ぬれば、縦広八万由旬なり
(『梁塵秘抄』巻二。新日本古典文学大系、17頁)前述した通り、漢文で「想」がでてきたら「オモフ」と訓むわけですから、このような用字は不思議なことではありません。「想像」と書いて「おもひやる」とよませる例も結構見かけます。ひらがな表記や「思」が圧倒的に多いというのは事実で、「想う」が近代以降に増えたというのもそうなのかもしれませんが、あの記事の書き方では誤解する人も出てくるかも。
ただし、
しかし「想う」を認めると「思う」との使い分けの線引きをどこに定めるかという問題に突き当たります。
というのは、たしかに大きな問題です。類義の漢字(今回でいえば、たとえば「思」「念」「想」「憶」など)の間で本当にニュアンスの違いがあるのか*2、書き手はそれを意識していたのか、読者はそれを受け取れるのか・・・正確な意思伝達が果たせなくなるという危険性について配慮はあってもいい。はたして、日本語話者の間で「想う」のニュアンスは共通理解としてあるのかどうか(←これをアンケート調査するとおもしろいのでは?)。
ちなみに、『角川大字源』の「同訓意義」では「思」は「あれこれ考えめぐらし思案する。また、おもい慕う」とし、「想」は「おもいやる。おもい浮かべる」としています。