壮絶な恨み節

先日、とある大著の増訂版を見る必要があったので手に取ったのですが、そこに「増訂再版に際して」という一文が。それを一気に読み上げた後の図↓

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とりあえず、書名も、当事者の固有名も伏せます。

昭和五十二年に「××」を著述した際に、思はずも胸裏に長年溜つてゐたものを吐露した。ことの次第をよく御承知で私を第三者として絶えず見護つてゐて下さつたM先生が御健在のうちにと思つたからであるが、何もかも知り尽してゐた兄弟弟子のT君は、「Kさんがあれを書かれた気持は当然ですよ。私もさつぱりしました。」と言つてくれた。知己の言である。私も、研究の始めに道を示して励まして下さつた恩師に対しては至らぬながら率先して人一倍尽したつもりである。格別返報などを求める意はなくひたすら奉仕したと信じてゐる。一般に先生より弟子が業績を目覚しく表はすと具合が悪いようで、「松岡映丘さんと山口蓬春さんの例などが目の前にありますから、十分お気を附けなさい。」などと注意してくれる先輩などもあつて、私はそれに対しては格別留意してゐた上、恩師を信ずる気持が強かつたから、親しい友人などから、「君にこんなことは甚だ言ひにくいけれど、先生は君が意外に思うような言動をされてゐる。」これこれだよと具体的に詳しく話を聞かされると、平素繰り返へし先生が私に直接言つてをられることは何処から出てゐるのであらう、(とかく自分に対しては点を甘く考へ勝ちなものであるが、)恩師が私に面と向つて言はれることは世間普通の常識で当然と解せられるので、友人が語るような表裏異る恩師の言動を疑ふことは出来なかつたのである。もしその表裏異なる一部始終をぶちまければ、私が××に漏らした恩師に対する思ひをどなたもよく諒解されると思ふけれども、要は、すべて私の不徳の致す処と反省して差し控へて来たが、唯一つ、学位論文「○○*1」に対する恩師の扱ひについては、拙いながら学問研究に志す一員として何としても許し難い気持を消しかねるのである。

冒頭から鬼気迫る文章です・・・。この後、学位論文のテーマがこの「恩師」(Y先生)の都合によって変更されたことがあったと暴露されます。

私は大鏡・増鏡・今鏡などの鏡物の物語を中心に「歴史物語の研究」を学位論文にと考へ、Y先生に御相談した処、それは自分がやるから他の問題にしてくれとのことで、私は「○○」に変へたのである。

戦況は悪化、著者にも召集がかかる。

昭和十八年に「△△」が出版されたとき、M先生は、「これは体系的に纏められてゐる画期的な著作だから、学位論文として提出したらよからう。」と言つて下さつたので、Y先生にお話しすると、学位論文はやはり○○にしてくれとのことで、M先生が一日も早く学位をとお考へ下さつたことも成立たなかつた。

学位論文は全体の前半部が書き終わった段階。それでも論文としての価値が十分にあるとM先生に薦められ、これが遺作になる覚悟で提出の準備をなさったとのこと。そして、終戦を迎える。

さて、それを提出しようとしたら終戦となり、私も幸に無事帰還することが出来たが、健康は上述の次第であつた。処が、帰還したのだから、全部を完成して出せとの御宣託である。言はれなくても、もとより完成を期してゐる。必ず書かなければならないけれども、最悪のコンディションでやつと生きようとしてゐる状態の時にぶつけられた言葉は私の腸を抉つた。これまで逆縁に対して辛棒し続けてガンバッて来たつもりの私も、余りの言葉に身の置き処がない程情けない気持であつた。研究に日夜腐心してゐる学究なら、まこと困難な条件で研究してゐる弟子に対して吐ける言葉ではないと思ふ。世間では私を一番弟子と見てゐるのである。

終戦後、著者は骨身を削って、論文の完成に漕ぎつけます。時は昭和21年6月。ところが著者は更なる逆境に直面する。

研究が纏れば直ぐに公刊したいと思ふのは当然である。殊に一入苦心の作ならばなほさらである。それが済まないと次の新しい研究の纏めに取りかかりにくくもあるからである。然し、それが論文審査のため徒らに前後十年間も延ばされた。その十年も、普通の十年とは違ふ。戦争が終つて落着きを取り戻した十年、その間には戦前と変つた新しい顕著な進展があつた。(中略)著作は全部完稿してゐて、何時でも出版できるようになつてゐたのであるから、それが終戦後間もなく出版されてゐたらと思ふと、今更ながら悔んでも悔み切れないのである。

「血涙」という表現がありますが、この著者の置かれた状況こそは、まさにそれではないかと。そして、怒りは頂点に。読者の同情心も頂点に。

昭和二十四年五月、Y先生の許に下調査を乞ふため三年間預けてあつた論文(それには些少の助言もなかつた。)を取り返へして提出する手続をしようとしたら、先生は論文は二部提出しなければならぬと言はれた。私は◎◎大学は一部提出すればよいといふ規則であると知らされてゐたから、寝耳に水で、慌てて昼夜兼行で手分けをして、もう一部写しを作つてゐたら、確かな筋から一部でよいと教へられた。時間もないので全部の写しを果さぬうちに、提出の期限が来たため、手許に完全な控へは残らなかつた。提出した教授会の日、説明の責任のあるY先生は鎌倉のS氏の所へ出掛けて欠席され、N先生が代つて取り扱つて下さつて論文は受理され、審査はY・N両先生と決定した。N先生は第三者が入らない方が面倒なくてよいと思つて二人だけにしたと話して下さつたが、それは逆に反つて審査の進行には悪条件になつたようで、満六年も経過した。私は受理された時から、旧制度の最後の教授会までには済むであらうと覚悟してゐたので、気長に待つ積りでゐたが、その間に余り長くなるので心配してY先生に審査を促がされた親切な先生方が数名をられたが、その先生方がY先生から聞かれた審査遅延の返事の内容をば聞かされて、私は唖然とした。いか程私が身の不徳を反省しても、到底及ぶ処ではなかつた。その事実をここにその儘記るせば、私の心中の程はよくお察し戴けると思ふが、それでは私の至らぬ品性が益々足りないものになつてしまふことを恐れ、口にすることを憚かるのである。論文通過まで長い待つ間の十年であつたが、それでも通して戴けてよかつたと思ふ。

*1:本書のもとになった学位論文