正確さが求められるとき

昨日のエントリでも書いた通り、ちょっとくらい文法や用語法の誤りがあったからといって目くじらを立てることはないのですが、詩を書いているのでもない限り、意味不明の文章や誤解を与える文章を書いてはいけない。当たり前の話ですが・・・。そういったことを、

  工藤力男『日本語学の方法 工藤力男著述選』(汲古書院 2005年)

に収録された「〈位相〉考」(137〜158頁)などを読みながら、改めて思ったわけです。

このように、術語を正確に用いようとする人が存在する一方、およそ恣意的としか言いようのない用い方をする人もいる。私見では圧倒的に後者が多い。先年その同じ協会 *1 が編集した「日本文学講座」十三巻の目次を見ると、「位相」の語を標題あるいは副題にもつ論文五編を拾うことができる。それを読むと、この語の用法のまちまちであることが歴然とする。
(151頁)

この後、文学研究者による「位相」の用法を挙げて批判する箇所は痛快です。例えば、

正岡子規の位相」(××*2)は、初めに、子規の写生と共同性のかかわりの検討を通して、近代の初期を生きた子規の文学の独自性を考えていきたい旨を述べる。が、文中に一度も「位相」の語は用いられず、標題が何を意味するのか、わたしには想像さえできなかった。
(同上)

また曰く、

風土記における伝承の位相」(●● *3)からは十六個の「位相」が拾えた。「風土記のクニの位相」は、続く記述からクニの「範囲」を指すとおぼしい。(・・・中略・・・)そのいくつかは「階層・段階」の意味で理解してよさそうだ。しかし、「基層の上に増幅された位相」「昔話への位相」「言向けの征討と開拓、農耕の二つの位相」の意味するところは見当が付かない。
(152頁)

そして、皮肉たっぷりに、

これらの用法は「位相」本来の意味とは無関係だと言っていいだろう。一つのことばを思い思いに用いてこのように議論ができる文学研究とは、不思議な世界である。
(154頁)

*1:日本文学協会

*2:実名等は伏せる

*3:同じく伏せ字