升庵詩話新箋証

 最近「枝葉末節ブックレビュー」シリーズをお休みしてますが、いろいろと溜まってきているので。

  • 楊慎撰・王大厚箋証『升庵詩話新箋証』上・中・下全3冊(中華書局、2008年) ISBN:9787101063738

 王大厚氏の厳父、故王仲?氏『升庵詩話箋証』の増訂本で、『升庵詩話箋証』自体が入手困難になっているので大変助かります。『升庵詩話』は明の時代を代表する文人、楊慎(1488〜1559)の詩話でして、その博覧ぶりをいかんなく発揮している名著。宋以前の漢詩文に関心ある人は本書に注意を払うべきでしょう。今回は『升庵詩話新箋証』の紹介というよりも、『升庵詩話』そのものの紹介です。

寸鉄

 重要なことをサラっと書いてしまうところが大学者の大学者たるゆえんで、今回改めて飛ばし飛ばし読んでみて、たとえば「唐詩梅花詩甚少、絶句尤少」(中冊472頁)――唐の時代には梅の花を詠んだ詩は非常に少ない。絶句はほとんどない――と言われると、文献が揃っている現在では常識に属すること(唐詩を読み慣れていない方にとっては意外に感じるかもしれませんが)であっても、500年前の指摘としての重みを感じます。無駄のない文体がその鋭さを一層引き立てますね。
 余談ですが、唐詩に梅花があまり出てこない理由を、岩城秀夫氏は「長安のあたりでは、気候が梅の生育に適しませんでしたので、長安を中心とする詩人の感覚に入りにくかったのではないか」(『漢詩美の世界』、30頁)と推測していますが、さてどうでしょうか。

「詩話」としての価値

 あくまで詩話(評論)なのですから、学問的厳格さを持ちこんで記事を検証するのは妥当ではないでしょう。楊慎は雲南流罪になった身で、資料的な制約もありました(杜撰さは後世やり玉にあげられたりします)。しばしば引用している詩句が現行のものと異なっていたりしますが、どちらが正しいか、ではなく、いろいろなかたちで当時は流布していた、くらいに緩やかに考えるのが本書を楽しむコツだと思います。
 そういうものですから、解釈の是非はともかく「そういうものか〜」と思わせる記事に出会えばいいわけで、本書はその手のネタに困りません。個人的に眠気が吹き飛んだのは、以下のもの。

  呂将軍貂蝉
世伝呂布貂蝉、史伝不載。唐李長吉《呂将軍歌》:「榼榼銀亀揺白馬、伝粉女郎大旗下。」似有其人也。

(下冊1037頁)――世間では呂布の妻である貂蝉の話が伝わっているが、歴史書には貂蝉のことは載っていない。唐の李賀の「呂将軍歌」という作品に見られる人物がそれに似ているが――
 貂蝉は『三国志演義』に出てくる架空の人物で、元の時代以前には貂蝉にまつわる説話は伝わっていないとされているのですが、唐詩にそれらしき人物が出てくると言うのです。楊慎が引用する李賀の詩二句は、「ゆらゆらと銀亀(の形をした印か)を揺らせて白馬に乗っているのは、大きな旗の下にいる化粧をした女の大将」といった意味で、『三国志演義』の貂蝉像とはまた少し違うようですが、たしかに何かを感じさせますね・・・。自分の関心に即したものから調べ物を始めれば良いと思います。

詩(句)の評価

 とはいえ、作品の優劣にかかわる批評に対しては、現代の我々とは感覚が違うところがあるのですから、大いに批判をするのも良いでしょう。

  唐詩絶句誤字
唐詩絶句、今本多誤字、試挙一二:如杜牧之《江南春》云「十里鶯啼緑映紅」、今本誤作「千里」。若依俗本、「千里鶯啼」、誰人聴得?「千里緑映紅」、誰人見得?(以下略)

(上冊、277頁)――杜牧の「江南春」詩の「十里鶯啼緑映紅」という句を流布本では「千里鶯啼緑映紅」にしているが、これは誤りだ。鶯の鳴き声を千里隔てて誰が聞けるというのか?千里も続く緑葉と紅花の光景を誰が見られるというのか?――
 私に言わせてもらえば、「千里鶯啼緑映紅」こそが江南地方の無限に美しい風景を的確に描写したもので、それを即物的に考えて「千里なんて誇張だ。十里が正しい」などと言うのは文学センスの欠如以外の何物でもないと思ってしまいますが、みなさまはいかがでしょうか。