『マンガ「書」の歴史と名作手本 王羲之と顔真卿』

 書跡の図版に釈文が付されているのが大変ありがたい入門書です。書は造形美を鑑賞するものでもありますが、一義的には読むものであることを、当たり前のことですが再認識させられます。

マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

重要な副題

 本書は『マンガ 書の歴史 殷〜唐』(asin:4062741504)を文庫化した決定版ですが、「殷〜唐」ではなくて「王羲之顔真卿」という副題を付したのが本書の最大のポイントの一つではないかと思います。
 王羲之については今さら言うまでもないですが、顔真卿(顔魯公)も巨人です。ただし、我が国の書は、奈良時代から平安時代にかけてはとにかく王羲之の書風が愛好され(王羲之は基本的にずっと尊重され続けるのですが)、あとは欧陽詢(本書には125〜128頁に登場します)の影響があるかなという程度で顔真卿の存在感は薄いですが。鎌倉時代になると顔真卿を飛び越して、宋の黄庭堅(黄山谷)の書風が流行します。
 「王羲之顔真卿」という対照的な二人が中国書道史の屋台骨であり続けたことは、本書の続編『マンガ「書」の黄金時代と名作手本 宋から民国の名書家たち』を読むことで実感します。この副題が極めて妥当なのはその点にあります。

王羲之顔真卿

マンガ 「書」の黄金時代と名作手本―宋から民国の名書家たち (講談社+α文庫)

マンガ 「書」の黄金時代と名作手本―宋から民国の名書家たち (講談社+α文庫)

 宋以降の中国書道は、王羲之あるいは顔真卿に対する熱中と反発によって発展してきたような感があります。

書法においては、蘇軾は王羲之に一定の傾倒を示しながら、顔真卿のありかたにも強い関心を示した。

顔真卿の書法に、新生面を見出したのも蘇軾、黄庭堅の大きな特徴であった それはどこまでもその本質を見きわめたものであった
蘇軾「顔真卿の書を特異な目で見ることは誤っている 彼は実によく王羲之を学んでいるのだ」
黄庭堅「同感です 顔魯公の書は事細かに見ていくとよく王羲之父子の筆法にかなうものです 多くの人は特異な面に心に奪われてその本質がわかっていない」

米芾は蘇軾、黄庭堅とは異なり、顔真卿をしりぞけて王羲之に徹し、王羲之書法のもつ美しさをことさらにあでやかに表現した

趙孟頫の(中略)書は各体に巧みで、二王(王羲之・王献之)の典型を学び、それに復帰すべきだと唱えた。

顔真卿の茅山碑を得るや、張雨はひたすらにこれに打ち込み、すっかり書風を変えてしまったという

傅山「私は幼い頃から鍾繇 王羲之の書を学びつくしたが一向に似たものにならなくて困った ところが顔真卿の顔氏家廟碑を習ったらかなり近づくことができ 次いで争坐位稿に打ち込んだのだ

康熙年間に入って清朝の治世が安定すると、書もこれに応ずるように王羲之書法が再び重んじられ、動きを抑えた格式による書法が力をもつようになった。

劉墉「かつては顔魯公の書法がどうしても好きになれなかったが年齢を重ねるうちに次第にその大きさが理解されてきた 魯公はやはり大きな目で王羲之を見ていたにちがいない よし 魯公の書法にとりくもう」
劉墉の顔真卿への傾倒が開始された――

余談

 書の世界には「換鵞(書)」や「入木」など王羲之の逸話に由来する熟語がいくつかありますが、本書には「換鵞(書)」のエピソードが紹介されています。

王羲之「なかなか元気のいい鵞鳥ですね その鵞鳥一羽譲ってくれませんか」
山陰に住む道士「あなたは王羲之様でしょう 黄庭経を書いて下さるなら全部あげますよ」
王羲之「それではさっそく」
山陰に住む道士「ありがとうございます」

(『マンガ「書」の歴史と名作手本 王羲之顔真卿』102頁)
 もし中華民国台北故宮博物院に行く機会がありましたら、至善園という庭園も覗いてみてはいかが。この場面を再現した彫像が置かれています。


 ちなみに、『晋書』王羲之伝などには「道徳経」を写したとあり、『黄庭経』ではなくて『老子』と交換したことになっていますが、『黄庭経』と交換したという説も唐代にはあったようです。

山陰道士如相見
応写黄庭換白鵞

李白「送賀賓客帰越詩」
 この李白の詩に「黄庭(経)」とあることによって、王羲之が写したのは『老子』なのか『黄庭経』なのか、後世にちょっとした議論を巻き起こすことになります。