『正徹物語』

正徹物語 現代語訳付き     (角川ソフィア文庫)

正徹物語 現代語訳付き     (角川ソフィア文庫)

 『正徹物語』(というよりも正徹という歌人)は不幸なところがあって、「ただ花には吉野山、紅葉には立田を読むことと思ひ付けて詠み侍るばかりにて」(本書33頁)の部分だけが文脈と切り離されたかたちで有名になってしまい、古典和歌の陳腐性を攻撃するための格好の材料を提供してきたのですが、それが誤解であることは前後の文脈を読めばはっきりわかる。
 本書を通読すれば、上述のような誤解とは全く逆の、詩的表現に対する正徹の真剣で厳粛な態度にいろいろと考えさせられるのではないかと思います。現代の詩人もきっと学べるところがあるのではないかと。一例、

 杜甫に「聞雨寒更尽、開門落葉深」という詩があるのを、同門にある老僧がいて、この詩の訓点を改めたのであった。昔から「雨と聞きて」と訓点を付けていたのを見て、「この点はよくない」として、初めて「雨を聞きて」と直した。たった一字の違いで、天と地ほどの差である。「雨と」と訓んでは、はじめから落葉と知っていることになり、スケールが小さい。「雨を」と訓めば、夜はただ本当に雨が降ると思って聞いていて、さて夜が明けて、朝に門を開けてみたところ、雨ではなく落葉が深く庭石の上に散り積もっていたのであった。この時になりはっと気づくところが感興を覚えるのである。ゆえに和歌もたった文字一つで全く異なったものに思えてくるのである。

(現代語訳212頁)

文庫本一冊の分量で注釈を付けることの難しさ

 こればかりはどうしようもないことで、文庫本の古典注釈書を読むといつも思うのですが、この限られたスペースのなかで満足な注をつけるのは至難のことだと思います。本書も言うまでもなく優れた注釈書なのですが、一面では不十分、一面では不要と思われるものが散見されるのは仕方がないかもしれません。対象とする読者層が何であるかということも含めて、工夫を要するところでしょう。たとえば冒頭の段「弱々しき三乗道にてさて果てん」(15頁、「頼りない三乗道でもまあいいや」)の脚注で、

声聞乗・縁覚乗(独覚)乗・菩薩乗。衆生を各自の能力に応じて悟らせる教法を乗物に譬えたもの。

という説明で「弱々しき」と言っていることの意味が十分に伝わるでしょうか。逆に、この「三乗」というのは「一乗」に対して言っていると了解している読者であれば、そもそもこういう説明は不要です。難しいところですね。
 文庫300頁に収まるくらいの分量で、学術的水準を保って十二分に注と評を書き込めるのは、散文では『古語拾遺』程度の長さの作品、和歌では百首歌ぐらいではないかと思っています。