「多久の雀は論語をさえずる」

 興味深い記事を目にしまして。

 元禄十二年(1699年)に、武士や町人、農民の身分を問わず、志ある者が学べる学問所としての邑校東原庠舎を現在の多久聖廟広場(観光物産館前)に開校し、邑民へ学問を奨励しました。そこは寄宿舎も備えた立派なものでした。学びの門戸を開いたのは、その頃の身分制度が厳しかったことを思えばとても珍しい事です。多久邑の人々は東原庠舎で、孔子様の教えである論語を素直によく学び、「多久の百姓さんは田畑にいる時も鍬を置いて人としての生き方を説く。」とか「多久の雀は論語をさえずる。」と言う伝説までもが残っているほどです。

http://talkbar.saga-s.co.jp/archives/67117777.html

 「多久の雀は論語をさえずる」は「勧学院の雀は蒙求を囀る」(『宝物集』等)のバリエーションですね。『論語』を囀る雀は初めて見ましたけど。この諺については太田晶二郎「勧学院の雀は なぜ蒙求を囀つたか」(『太田晶二郎著作集 第一冊』)に詳細に説かれているので参照を請うとして、雀は古くは『千字文』(「文室辺雀」)やがては『蒙求』を囀り、多久市で『論語』を囀るようになったということでしょう。『論語』もまた『千字文』『蒙求』同様に幼学書です。
 ところで「囀る」とするのは『蒙求』を音読したからだというのが太田氏の説明でして(さらに、それが「漢音」でよまれたことも重要視していますが)、たしかに訓読では「囀る」にはならないだろうというのはその通りでしょう。