消えた坊門宰相清忠(岩波文庫『太平記(三)』)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

 気晴らしに、西源院本が底本の岩波文庫太平記(三)』をぱらぱらと読んでいて、おお?!となりまして。

「・・・とてもかくても始終の勝こそ肝要にて候へば、よくよく御遠慮を廻らされ、公議を定めらるべく候ふらん」と申しければ、「誠にも謂はれあり」とて、諸卿僉議あつて、重ねて仰せられけるは、「征罰のために差し下されたる節刀の使ひ、未だ戦はざる先に、帝都を棄てて、一年の内に二度まで臨幸成らん事、且は帝位の軽きに似たり。また、官軍の道を失はるる処なり。たとひ尊氏九州の勢を率して上洛すとも、去張る、東八ヶ国を順へて上りし時の勢ひにはよも過ぎじ。戦ひの始めより、敵軍敗北の時に至るまで、御方小勢なりと云へども、毎度敵を攻め靡かさずと云ふ事なし。これ全く武略の勝れたるにあらず。ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」と仰せ出だされければ、正成、「この上は、さのみ異儀を申すに及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討死せよとの勅定ごさんなれ。義を重んじ、死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」とて、その日やがて、正成は五百余騎にて都を立つて、兵庫へとてぞ下りける。

(62〜63頁)
 この後が例の「桜井の訣別」ですよ。
 しかし、もうお気づきになった方もいらっしゃるでしょうけど、流布本では、この下策は「坊門宰相清忠」の提案になっているのです。

「誠ニ軍旅ノ事ハ兵ニ譲ラレヨ。」ト、諸卿僉議有ケルニ、重テ坊門宰相清忠申サレケルハ、「正成ガ申所モ其謂有トイヘドモ、征罰ノ為ニ差下サレタル節度使、未戦ヲ成ザル前ニ、帝都ヲ捨テ、一年ノ内ニ二度マデ山門ヘ臨幸ナラン事、且ハ帝位ヲ軽ズルニ似リ、又ハ官軍ノ道ヲ失処也。縦尊氏筑紫勢ヲ率シテ上洛ストモ、去年東八箇国ヲ順ヘテ上シ時ノ勢ニハヨモ過ジ。凡戦ノ始ヨリ敵軍敗北ノ時ニ至迄、御方小勢也トイヘドモ、毎度大敵ヲ不責靡云事ナシ。是全武略ノ勝タル所ニハ非ズ、只聖運ノ天ニ叶ヘル故也。然レバ只戦ヲ帝都ノ外ニ決シテ、敵ヲ[金+夫]鉞ノ下ニ滅サン事何ノ子細カ可有ナレバ、只時ヲ替ヘズ、楠罷下ルベシ。」トゾ被仰出ケル。正成、「此上ハサノミ異儀ヲ申ニ不及。」トテ、五月十六日ニ都ヲ立テ五百餘騎ニテ兵庫ヘゾ下ケル。

(『太平記 二』日本古典文学大系岩波書店、1961年。150〜151頁。底本は慶長八年古活字本)
 この一件によって、清忠は近世以降、評判がすこぶる悪い。小学館の『学習まんが 日本の歴史』でも、清忠の建議をもとに後醍醐が考えを巡らして兵庫行きを命ずるという流れだったはずです。ともあれ、西源院本では清忠は「諸卿」のなかに紛れ込んでいるので、もし西源院本が流布していれば清忠は汚名を着せられることもなかったわけですね。
 それにしても、西源院本の正成は喋り過ぎです。流布本において正成が万感をこめて「此上ハサノミ異儀ヲ申ニ不及」と潔かったのを見よ。


 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
 木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
 しのぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か