『風土記 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)

 校訂文・読み下し文(脚注付き)・現代語訳を完備した最新の『風土記』の注釈書が文庫本で刊行されました。ありがたいことです。

 中村啓信氏といえば、『新版 古事記 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫角川書店、2009年)において「本文は、可能な範囲で底本の形態および字体を尊重して活かすことに努めた」(462頁)わけですが、その方針はこの『風土記』においても踏襲されています。そのことの意義については議論の余地があるでしょうけれども、外字好きの方々は必見ではないでしょうか。

(上巻、306頁)
 「飛」とか「所」とか「悉」とか。「所」の別の異体字はほかの風土記で見ることができます。
 それはさておき、買ったばかりではじめのあたりをざっと通覧しただけなのですけれども、少し考えさせられることがありました。
 本書の訳注は4名の研究者が分担して執筆しています。自分が担当している箇所について、共著者の主張・学説に対してどのように対処すべきなのか。もちろん、学問上の真理というのは人情とは(建前上は)まったく無関係のものですが、しかし、自説が採用されなかった、一顧だにされなかった、という場合、共著者の心理として、やはり何ともいえない複雑な気持ちになるのではないかと勝手に想像してしまうのです。
 『常陸国風土記』行方郡、「水に臨みて手を洗ひ、玉もち井に落したまふ」(「臨水洗手、以玉落井」)の一節、執筆者のお一人である橋本雅之氏は、この「落」字は諸本の字形から「為」ではないかと論じたことがあります(「『常陸国風土記』訓釈二題」『風土記研究』創刊号、1985年)。つまり、「玉もち井を為(つく)りき」と。しかし、この説はこのたびの角川ソフィア文庫本では採用されませんでした。
 たしかにここは微妙な判断を要するところですが、しかし、「況むやまた、塩と魚の味を求むには、左は山右は海なり」(常陸国風土記・総記。「況復求塩魚味、左山右海」)はどうでしょう。橋本氏は下文の「植桑種麻、後野前原」(桑を植ゑ麻を種かむには、後は野前は原なり)との対句関係から考えても諸本の「求塩魚味」は本来「求塩味魚」であったものが転倒した表現、つまり「塩を求め魚を味はむには」と訓むべきであろうと主張されます(『古風土記の表現』和泉書院、2007年、183頁〜185頁)。こちらは説得力があると多くの人が認めうる説であろうと思われるのですが、やはり採用されませんでした。文庫本なので紙幅の問題もあろうかと思いますが、「・・・という説もある」という言及が脚注にあっても良かったのではないでしょうか。