主明楽美御徳

701年(大宝元年)に本格的な律令体制をスタートさせた日本国は、唐王朝との国交を結ぶわけですが、訪問する際に携帯する国書の文面をどうするか、が問題になりました。
というのも、我が日本律令の規定するところ、例えば公文書の書式を定めた「公式令」によると、外国使節に対する天皇詔書では、その冒頭を、

明神御宇日本天皇詔旨

で始めるように規定されている。また、「儀制令」、これは朝廷の儀式などの次第を定めたものでして、これによると、

天子。【祭祀所称】
天皇。【詔書所称】
皇帝。【華夷所称】
陛下。【上表所称】

つまり、諸外国(「華夷」)に対するときは天皇は「皇帝」の称号を使用する、と規定されています。
ということは、国内法を遵守すれば、唐の皇帝に手紙を持っていくときには「(明神御宇)日本天皇」あるいは「日本皇帝」を名乗る必要があるのですが、日本は似たようなことをして、外交的な失態を一度経験しています。それが、あの有名な、推古朝の遣隋使が持参した国書の文面、

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々

これには煬帝がマジ切れを起こして「おととい来い!」となりました。世界に「天子」(皇帝)は一人しかいないはずで、しかも大陸王朝から見れば東夷の一国に過ぎなかった倭国の王が「天子」を名乗ることは大問題だったわけ*1
外交上の失敗は許されない、かと言って、せっかく苦労して制定した律令の規定を、相手の都合に合わせてホイホイと破っていいのか?ということで、おそらく当時の政権中枢は悩んだと思います。そのとき、頭の良いヤツが閃いちゃったんでしょう。
「『皇帝』とか『天皇』ってのは向こう(唐)に意味が通じるからマズイんでしょ?これを和訳すりゃいいのでは?」
ウルトラCの大技です。
そこで、こう推測されているわけです。遣唐使の国書の冒頭、送り主を銘記した部分には「日本主明楽美御徳」云々とあったのではないか、と・・・。「オホキミ」(王・大王)に対して、「スメラミコト」というのは自然発生的な和語ではなくて、「天皇」の翻訳語としての造語だと思うのですが、いずれにせよ、律令の規定を守っただけでなく、唐朝との対立も回避した絶妙な外交的配慮ということですね。「スメラミコト」に対して「主明楽美御徳」と、好ましい意味の音字を宛てたというパフォーマンスもなかなかの手腕です。まさに外交上手でして、現在の日本も少し見習ってほしい。
受信者側の唐は、
「・・・これは名前か?」
と誤解するわけですが(「勅日本国『王』主明楽美御徳」)。

*1:ただ、その当時、隋は高句麗との戦争を抱えていて、東夷に頭痛の種を増やしたくないという思惑があったのでしょう。国交の断絶という事態は避けられて、その次の年に隋は倭国に返使を派遣して、事なきを得ます