鶴が松の枝に巣くうと謡う今様を(1)で紹介しましたが、鶴は樹上に巣作りすることはないそうです。花札の鶴が松の枝にとまっているわけではないというのが、そういう生態学の知見に基づく描写なのかどうかはわかりませんが。
かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数いくそばく、幾千年経たりと知らず。もとごとに波うち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るに堪へずして、船人のよめる歌、
見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる
とや。この歌は、ところを見るに、えまさらず。
(『土佐日記』一月九日)そこで、この有名な一節に出てくる「鶴」は、実は「コウノトリ」のことだろう、とされているわけです。
混同されたのか、あるいはそのように言いなすという文学上の規制があったのか、ついにコウノトリは松の伴侶としての鶴の地位を脅かすことはありませんでした。
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
(『冬の日』田家眺望)