李商隠詩選

李商隠詩選 (岩波文庫)

李商隠詩選 (岩波文庫)

岩波文庫の唐宋詩人詩選

 戦後に出た岩波文庫の「〇〇(詩人の個人名)詩選」は、『蘇東坡詩選』(75年)を皮切りに、『杜甫詩選』(91年)・『李賀詩選』(93年)・『李白詩選』(97年)・『杜牧詩選』(04年)・『陸游詩選』(07年)とありますが、その必携のラインナップにまた素晴らしい一冊が加わりました。
 次回は、唐であれば李商隠とのつながりを重視して温庭筠、あるいは、そうではなくてやはり白居易あたりが妥当でしょうか。いや、むしろ、「元白」・「劉白」と並称されるのに、従来、日本であまり注釈がなかった元稹や劉禹錫がほしいところかな。
 宋人であれば、梅堯臣や楊万里といったところもいいですが、日本の中世以降に広く愛読されて大きな影響を与えながらも、今では知名度が落ちた黄庭堅(山谷)。需要はあると思います。

ハス(蓮、荷、芙蓉、芙渠)

 カバー画の「太液荷風図」、李商隠にふさわしい選択ですね。李商隠の詩にはハス(蓮、荷、芙蓉、芙渠)がしばしば登場しますが*1、それも恋愛詩が多いことと直接的に関係します。「蓮」(レン)が「憐」(レン)と掛詞になるからです。

繍芙蓉  夜具に刺繍された蓮の花(芙蓉)。蓮、芙蓉は恋をうたう南朝の楽府に常用される。「霧露 芙蓉を隠し、蓮を見るも分明ならず」(「子夜歌」)など。「芙蓉」が呼び起こす「蓮」は、同音の「憐」に通じ、「憐」は恋するの意。

(115〜116頁、「無題四首 其一」)
 川合氏の注釈に一つだけ補足しますと、「芙蓉」は、これ自体で「夫容」(夫の姿)を想起させる仕掛けになっています。

「錦瑟」の新解釈

 冒頭に、李商隠の代表作でありながら、難解で知られる「錦瑟」詩が出てきます。この尾聯、

此情可待成追憶  此の情 追憶を成すを待つ可けんや
只是当時已惘然  只だ是れ当時 已に惘然

の解釈が魅力的でした。解説(343〜344頁)に詳しく述べられています。百人一首「長らへば またこの頃や しのばれむ……」の上の句と似た心になるようです。

この二句は、過去の幸福な愛を今から追憶することができない、過去においてすでに定かでなかったのだから、と解されてきた。しかし「此の情」を今現在の思いと捉えれば、それについて「追憶を成すを待つ」というのは、今の感情が追憶の対象というかたちあるものにやがていつの日かなると期待できようか、という不確かな思いを述べているのではないか。(中略)そう読むことができるならば、ここいは過去―現在―未来が行きつ戻りつ、からみあうことになる。そういえば「夜雨 北に寄す」詩(五四頁)にも、これより明快なかたちで過去―現在―未来が錯綜する手法が展開されていた。「当時」は過去とも現在とも読むことができるが、かつての思いであれ今の思いであれ、自分の思いは「惘然」たるものであった。それに未来の要素を加えることによって、過去の愛を喪失した現在の悲しみをうたうと単純に対比できなくなり、過去―現在、想念―現実という二項対立は溶解し、無化されてしまう。「潭州」詩(三三頁)の現在の光景に過去がだぶる描出、「七月二十八日……」詩(七一頁)の夢とうつつが交錯する叙述、いずれも今、現在という確かなものをあやふやなものに変えてしまう。現実を隠すというより、現実も非現実も、現在も過去も未来も、いっさいが渾然と溶け込んだなかに不可思議で美しい様相が立ち上がる、それが李商隠の詩の世界であった。

*1:刺繍されたハスも含めると、本書に収録された詩だけで10首に言及されます