「注、訓にわたる全備せる校勘」

 ツイッターのタイムライン上の流れでいろいろと思うところがあって書いています。
 林望氏は『イギリスはおいしい』で作家としての地位を確立し(念のために申し上げれば、愉快な本ではあります)、最近も『謹訳 源氏物語』『謹訳 平家物語』の評判が良いようです(未読)。しかし、末永く参照されるであろう、氏の本領ともいうべき業績は以下の2点だと思うのです。

 「遊仙窟の諸本につきて」(『東横国文学』13号、1981年)
 「遊仙窟本文校勘記」(『東横学園女子短期大学創立二十五周年記念論文集』東横学園女子短期大学、1981年)

 日本の古典文学を勉強しようとしている人にとっては必備だと思います(『書誌学の回廊』も読んでおくといいでしょうけれども)。
 遊仙窟校注 - Cask Strengthを書いた時には少し遠慮したので生ぬるいことを言っていますが、この『遊仙窟校注』の校注者が林氏の校勘記に言及していない時点で、これはもうアカンだろう、という感じです。
 それにしても「遊仙窟本文校勘記」のこの段落を読むといつも複雑な気持ちになります。

 かくて、私の嚢中には、本文、注文、訓を含めて、十四本を校勘した一覧表が出来てはいるが、もとより不充分極まるものであって、私の志す所迄は、尚渺邈とはるかなことと観ぜられる。然し乍ら、現今迄、本文に関する校勘記が八木沢博士の「遊仙窟全講」以外には殆ど発表されていない事実に鑑み、耻を千歳を曝す覚悟で、本稿の筆を秉る。注、訓にわたる全備せる校勘はとてもまだ公けに出来る段階ではなく、又訓を除いて、本文、注文の校勘記を、とも考えたが、双行に附せられたかの周密なる注文にはまた、本文以上に校異が夥しく、之に筆を及ぼす時には、本稿に数倍せる紙幅を要する事を悟り、ついにこれも今回は見送ることとした。

(84頁)
 「本文、注文、訓を含めて、十四本を校勘した一覧表が出来てはいる」としながらも「もとより不充分極まるもの」として「注、訓にわたる全備せる校勘」について「ついにこれも今回は見送ることとした」・・・。そして、今に至るまでそれが実現されていないというのは痛恨です。不朽の著述となるだろうに。
 そのような研鑽の蓄積があるからこそ、待望の『金剛寺本 遊仙窟』(塙書房、2000年)が刊行されて金剛寺本の全貌が明らかになった時の翻刻に対する厳しい批判が大きな意味を持つ。

 「書評 東野治之編『金剛寺本 遊仙窟』」(『文学』1巻3号、2000年6月)

 この書評も必読ですよ。すでにつぶやいたけれども。

 平家物語の現代語訳も大事なことかと思いますが、遊仙窟の「注、訓にわたる全備せる校勘」こそが我が文学研究にとって必要なものではないかと・・・。