朗廬の里

阪谷朗廬(1822−81)

江戸時代後期から明治前期にかけての儒学者。名は素(しろし)、字は子絢(しけん)、通称は希八郎、朗廬と号した。文政五年(一八二二)備中国川上郡九名村(岡山県小田郡美星町)に阪田(さかた)良哉の三男として生まる。母は山成氏、政。大塩中斎(平八郎)、昌谷(さかや)精渓を経て古賀侗庵の門に入り学ぶこと十余年、帰郷してさらに洋学を志すも果たさず、後月郡簗瀬村(芳井町)に桜渓村塾を開いた。嘉永六年(一八五三)秋、一橋領代官が同郡西江原村(岡山県井原市)に設立した郷校興譲館の督学に迎えられ子弟の教化にあたったが、同校は、尊王開国論の儒者朗廬の名声とともに、天下三館の一に数えられるに至った。明治元年(一八六八)芸州藩主より藩政顧問に招聘されたが、廃藩置県に会い禄を辞した。生活のため東京で新政府の卑官を転々としつつも、明六社に参加し同人中唯一の儒者ながら進歩的論陣をはり、また東京学士院創立と同時に会員に推された。明治十四年一月十五日、六十歳で没し、東京谷中墓地に葬られた。著作に、『朗廬文鈔』『朗廬全集』『田舎噺』のほか、『明六雑誌』所載の十六編の論策などがある。なお国立国会図書館憲政資料室に『阪谷朗廬関係文書』を蔵する。
    ――『国史大辞典』、「阪谷朗廬」の項目

その朗廬の名をとった岡山の地酒「朗廬の里」(大吟醸)をお土産でいただきました。深謝。
うまい。栓を開けた瞬間から吟醸特有の香りが立ち、これだけで食欲を刺激します。口当たりは柔らかいのですが、しっかりした辛さもあって、これはなかなか!いろいろな料理に合いそうですね。