禅林句集

 禅語3410句を字数順に配列して読み下し文と出典を明示。同字数の語句間では頭字の音読みで五十音順に並べて句の検索をしやすくするなどの工夫がされており、文庫のサイズで禅学の雰囲気を感じ取ることができるというのはありがたいことです。注意して読めば、座右の銘となるような名句を発見することもできるでしょう。

禅林句集 (岩波文庫)

禅林句集 (岩波文庫)

伝統的な訓読

 「解説」にも言及されている通り(469頁)、禅語録に関しては主に故入矢義高氏らの研究によって、伝統的な訓読・解釈の多くが訂正されてきました。画期的な業績だったのですが、本書の方針としては、

近来の学術的成果はさておいて、折角円覚寺の足立管長に話が持ち込まれたからには、従来の伝統的な訓読を用いることとした。

(470頁)と、具体的には朝比奈宗源氏・足立大進氏が伝えた訓読を用いたといいます。編集方針はそれで良いと思うのですが、禅句の本義と伝統的な解釈が異なる場合に限って、その旨を注記するということがあっても良かったのではないでしょうか。たとえば、寒山の詩が出典の、

誰知蓆帽下 有此昔愁人

(231頁)「昔愁人」は、この業界では「昔の愁人」とよむのが普通だったと思うのですが、本書では「昔愁(せきしゅう)の人」としています。つまり、昔のままの愁いをそのまま抱いている人、という意味で、本書の解釈が正しい。一言あってしかるべきでは。

「喫茶去」(きっさこ)

 本書に意訳がついていないのは残念です。全てに意訳をつけるのは無意味ですが(禅語というのはそういう性質のものではない)、ここでも、伝統的な解釈と本来のものが異なる場合、それぞれの意訳を示していれば読者もそこからいろいろ考えることがあったと思います。
 最も有名な禅語の一つ「喫茶去」(22頁)。和風の甘味処の暖簾とかにも使われていたりして、普通は「お茶でも召しあがれ」と理解されますが、生前の入矢氏も指摘されていた通り、これは本当は「茶を飲んでこい(出直してこい)」という叱咤のことばです。お茶を召し上がれ、というのは42頁の「且坐喫茶」(しばらく坐して茶を喫せよ)のほうです。
 伝統的な解釈が誤っているからといって、文化的な意義がなくなるわけではありません。特に名言・名句などの類は誤解によって人々がそこに自分なりの意義や生きる指針を見出していくことがあります。
 意訳などの注釈がないために、全体的に本書は難しく、一般読者に対して「喫茶去」と言っているようなオーラを発している感じがしてしまいます。もう少しヒントがあれば・・・と最後にないものねだりを。