世界古典文学全集『老子 荘子』(と福永光司氏『老子』『荘子』との関係)

 本書も老子荘子を読むときの必読書です。

世界古典文学全集17 老子・荘子

世界古典文学全集17 老子・荘子

 出版の経緯については「あとがき」(553〜554頁)に書いてある通りなので御覧いただくとして、実際の利用に際しては少し注意を要します。

老子

 まず、『老子』の部分、これは実は朝日新聞社刊の福永光司氏『老子』(asin:4022590092)を再編集したものです。部分的に補訂がなされていますが、朝日新聞社本を通読したことのある人は、その口語訳の調子(「天地開闢以前に元始として存在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが・・・」等々)といい、注のスタイルといい、「どこかで読んだことがある」という既視感を味わうことができます。「感」ではなくて、実際に「既視」なのですけど。
 ただし、紙幅の関係で、福永氏による各章の解説が十分に活かしきれていない部分が多いと感じるのは、大変残念ですが、仕方ないことですね。そういうわけで、老子の部分に関しては私は世界古典文学全集本をあまり利用していません。(老子荘子が一冊にまとまっているので相互参照には便利です)

荘子

 目次では福永氏と興膳宏氏の共訳になっていますし、凡例で「福永光司著『荘子』全六冊に準拠しつつ、興膳宏が作成した」(92頁)とある通りですが、『老子』が原著を彷彿とさせるのとは異なり、この『荘子』は別の著作として扱ったほうが良いです。
 興膳氏による口語訳が付いているのでだいぶ読みやすいですし、福永氏の理解をさらにわかりやすく敷衍してくれているのも長所だと思います。たとえば、顔回「私は進歩しました」(回益矣)孔子「どういう意味だね」(何謂也)で始まる問答をくりかえす場面(大宗師篇、世界古典文学全集165〜166頁)。最終的に顔回(顔淵)は「私は坐ながらにしてすべてを忘れました」という境地に達します。

 仲尼は居ずまいを正してたずねた。「坐ながらにしてすべてを忘れるとはどういう意味だね」。
 顔回「肉体を脱却し、感覚を放棄し、形骸を離れ、智恵を捨てて、大いなる道と一体になった状態、それを坐ながらにしてすべてを忘れるというのです」。
 仲尼「道と一体になれば好悪の情はなくなり、変化に身を委ねれば執着がなくなる。お前はやはり偉いやつだ。私はどうかお前の後についてゆきたいものだ。

 周知の通り、孔子顔回といった儒教界の大物選手を出してきて、彼らを通して儒教的徳目の批判をさせるというのは荘子一流のレトリックなのですが、福永氏によると、ここにはさらに痛烈な揶揄の気持ちがこめられているとのこと。

「而は果して其れ賢なるかな」は、論語(雍也篇)の「賢なる哉回や」をもじった言葉であろう。「丘や請う而の後に従わん」――荘子は満面の笑みをたたえながら、孔子をその才気の中で揶揄し翻弄しているのである。

講談社学術文庫荘子 内篇』341頁)
 『論語』のなかで孔子顔回を評した言葉をここにわざわざ持ってきているというわけです――なお、ひとこと余計なことをいえば、古典に出てくる漢語「賢」は、いわゆる利口ということではなくて、もっと広い意味をカバーするほめ言葉です。まさに、興膳氏の口語訳での「偉い」という感じです――これだけで十分通じるとは思うのですが、世界古典文学全集本はこの文脈理解をさらに徹底させて、

論語』雍也篇で孔子顔回を称えた、「賢なるかな回や」をもじったことばであろう。「果」の一字に荘子の皮肉が感じられる。

と述べます。口語訳でいえば「お前はやはり偉いやつだ」の「やはり」に荘子のイヤミを味わう必要があるというわけです。
 要するに、ここは「私は君のことを偉いとは思っていたけど、絶対自由の境地を得たという今、『やっぱり』君は偉かったね。ひとつ、君についていくか」といったところでしょうか。