「生苦」と「未知生」

 「玄関」(174〜177頁)が仏教語だとは気付きませんでした。

仏教漢語50話 (岩波新書)

仏教漢語50話 (岩波新書)

 それはともかく、「四苦八苦」(194〜197頁)の箇所がどうしても気になります。四苦の一つ「生苦」の意味が明確に説明されていないのです。
 それは常識だからだろ、と思われる読者も多いかと思いますが、私の経験上の感覚では、かなりの数の人が「生苦」を「生きる苦しみ」と勘違いしています(試しに周囲の人に質問してみてください)。言うまでもなく、これは「生まれる苦しみ」です。この世に誕生したこと自体が苦であると仏教は捉えるのですね。「生きる苦しみ」の方は「病苦」と「老苦」で代表させている。
 もちろん、「人が存在すること自体に苦悩があるとする認識」(196頁)とか、『往生要集』『宝物集』の引用でそれは察しがつくとは思うのですが、ほかの49話での懇切な説明に比べたらこれはどうなのでしょう。百八煩悩の「こじつけ」の説を紹介するよりも、これを決着させたほうが多くの読者のためになったはず。
 ただ、それは割ともうどうでもよくて、そこから派生的に興味深いと感じたことが一つありました。上に引いた文の前後の部分ですが、

ただ、中国の知識人で、生老病死の「四苦」を人間がこの世に生きる本然的な苦しみとして考えていた人は、おそらく少数派だっただろう。孔子は、死について尋ねた弟子の子路に対して、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」(『論語』先進篇)と応じたが、人が存在すること自体に苦悩があるとする認識は、中国思想にはもともとなかった。

 この『論語』の「未知生、焉知死」をみなさまはどう解釈しますか?この「生」を、「生まれる」の意だとはっきり主張したのは(それ以前にもありますが)朱子です。「非原始而知所以生、則必不能反終而知所以死」(『論語集注』)――始めを尋ねてなぜ生まれたのか分からない以上、終わりにかえってなぜ死ぬかわかるはずがない――『易』繋辞伝上の「原始反終、故知死生之説」をここに援用して理解しようとするわけです。
 これは単に私の印象批評なので、経学的、言語学的にどうなのかということは考慮していませんが、釈然としないものを感じます。
 これは、やはり「生きる」の意でとらないといけないのではないか。今どのように生きるか、それすら分からないのだから、死後のことなどわかるはずもなかろう――だから、諸君も今どう生きるかを考えることに集中しなさい。これが孔子のメッセージではなかったか。この説に私は共感します。
 新注は、力強く激励されるような解釈だと感じることがままあるのですが、この箇所はどうしたことでしょう。