紹介・『文選詩』――特に「古詩二十首」について

 

 というわけでつらつらと拝見していたのですが、そのうちの一つに『文選』の詩の部分を抄出した写本がありました。ざっと見ただけですが、興味深かったのでご紹介いたします。
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 『文選』所収四四〇首の詩のうち約四分の三を選びだして書き抜いたものと思しいのですが、どういう基準で取捨選択されたのかは今後の検討にゆだねられます。
 詩題注や頭注があり、既存の注をそのまま引用したり少し言い換えているものが多い(李善注・五臣注ともに利用されています)ですが、たとえば「九日従宋公戯馬台集送孔令詩」(10)には、

先詠九日、次頌聖讌、次咏帰客、末自嘆。凡四段。

文脈理解を示す(おそらく筆者自身の)頭注があったりします。この辺りも精査すると何かおもしろいことが出てくるかもしれません。
 ひとつわからないのは、詩の順番が前後している箇所があることです。
 冒頭の「公讌詩」から「同謝諮議銅爵台詩」までは『文選』に出てくる順番通りなのですが、ここから「贈尚書郎顧彦先二首」に飛んでしまい、「直東宮答鄭尚書」の後になって、途中飛ばされた(目録でいえば上に「八十三」と別筆で墨書されている)「贈五官中郎将四首」から「答何劭二首」に戻ってから「答顔延年」に進むということになっている。
 この部分に関しては、筆者が『文選』をめくっていて「同謝諮議銅爵台詩」の後で一葉か二葉を飛ばしてしまって「直東宮答鄭尚書」を書きうつした後にその事実に気づいて慌てて戻ったということが想定できるかもしれません。
 しかし、「擬古十二首」あたりから最後にかけての順番の前後にどのような意図があるのかは判然としません。後考。

古詩二十首

 私が興味深く感じたのは、「古詩二十首」の箇所です。ここは本来「古詩十九首」とあるべきところ。本文を見てみると、「東城高且長」篇を分割して、詩句「燕趙多佳人」以下を独立した一首の詩として扱っているのです。

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 元来別の作品が一首に併せられてしまったのだという説は明代の張鳳翼『文選纂注』が言いだしたものらしい(参照、馬茂元『古詩十九首探索』、世界文学大系『文選』)。しかし、『文選』や『玉台新詠』などのアンソロジーでこれを二首に分けているものはない。
 筆者の見た『文選』の本で二首になっていたというのではなく(もちろん、『文選纂注』に直接拠った可能性もあります)、筆者独自の判断で『文選纂注』等の主張に従って分割したのだとすれば、書写・学習の態度に関しておもしろい事例だと思います。
【追記】

 実際に『文選纂注』(『四庫全書存目叢書 集部 第二八五冊』所収)と見比べてみますと、この『文選注』と密接な関係があることがわかりました。しかし、これだけではうまくいかない部分もある。