求む:「岩波文庫『万葉集』についての覚え書(仮称)」

 このたび第2巻が刊行されたのを機に、恒例の「プロに任せず、言い出しっぺのオマエがやればいいのでは?」系の記事ですが、そこは平にご容赦を。

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(二) (岩波文庫)

万葉集(二) (岩波文庫)

 「定評ある「新 日本古典文学大系」に基づく新校訂版」(帯)ということなので、実際に新大系本の記述と比較してみるか!とノリノリだった人も大勢いたことでしょう。そして、実際に作業をしてみると「割と違う・・・」ということに気づきます。
 スペースの都合で、注の部分が簡略化されたり言い換えられたりしている部分があるのはともかく、解釈や訓みが変わっている部分も目につきまして、なかなか興味深いです。あの「東の野にかぎろひの・・・」(巻1・48)を「東の野らにけぶりの・・・」(文庫第1巻90頁)と、そして、「いはばしる垂水の上のさわらびの・・・」(巻8・1418)の第1句を「いはそそく」(文庫第2巻322頁)と改訓したのは、文庫第1巻の解説でも大きく取り上げられているように、注目すべき変更だといえますが、それ以外にもいろいろと。
 文庫第2巻のなかでいえば、たとえば、巻6・988。新大系ではこれを「春草は後は散り過ぐ巌なす常磐にいませ尊き我が君」とよみます(新大系第2巻58頁)。これは第2句「後波落易」を「後波落逷」と改めた上でこうよむのですが、この部分に関して注ではこう説きます。

第二句の原文、諸本「後波落易」。「落易」を文字通り「ちりやすし」と訓むと、第二句「のちはちりやすし」は字余りの違例となる。略解が「落易」を「うつろふ」と義訓して以来、この句は「のちはうつろふ」とも訓まれるようになった。しかし、「落易」という熟字は傍証を欠く。(中略)思うに、「易」の字は「逷」の誤字で、原本文は「落逷」、第二句は「のちはちりすぐ」と訓むのであろう。「逷」は、竜龕手鑑に「過也」、名義抄にも「スグ」の訓が見える(佐竹「自然観の素観を探る―日本」『岩波講座・転換期における人間』二)。

 古典学を少しでも学んだ人なら、自分が校注者だったら(あるいは、ゼミや研究会で発表するのだったら、etc.)このような誤字説を提起する勇気はない・・・と思う人が多いはずです。ところが、このたびの文庫本では第2句を「後は移ろふ」(文庫第2巻184頁)と通説通りによみ、注では(同185頁)、

第二句の原文は諸本「後波落易」。ノチハカルトモ・ノチハカレヤスシなどと訓まれてきたが、後に「落易」をウツロフと義訓した略解の説がひろく支持された。草について「移ろふ」と表現することは、万葉集では月草の色をそう言う例(一三三九など)があるだけだが、「秋の野に移ろはんとて色かはる草」(後撰集・秋下)と見える。また、「落易」の「易」の字を「逷」の誤字と見て、ノチハチリスグと訓む説もある。「逷」は竜龕手鑑に「過也」、名義抄にも「スグ」の訓が見える。今は通説に従っておき、なお後考にまちたい。

「「落易」の「易」の字を「逷」の誤字と見て、ノチハチリスグと訓む説もある」は他人事のように言っていて味わい深いですが、ともかく、この例は「けぶり」や「いはそそく」とは異なって、新大系でおこなった冒険を少し軌道修正した感じになっています。
 そこで、どなたか、橋本達雄氏の労作「空穂の『万葉集評釈』についての覚え書」(『万葉集の時空』笠間書院、2000年。初出1988年)に倣って、新大系本から文庫本への過程で加筆・改稿がおこなわれた箇所を一覧化してみてはいかがでしょうか。
 東京堂から1943年〜1952年に刊行された窪田空穂『万葉集評釈』に対して、『窪田空穂全集』に収録された『万葉集評釈』(角川書店、1966年〜1967年)は「巻第一・巻第二については、筆者が大幅に加筆・改稿した書き入れ本があり、巻第十三にも一か所あるので、それを収録」したものであり、「空穂の『万葉集評釈』についての覚え書」の第4節は、その加筆・改稿箇所がどこなのかを指摘しています。たとえばこんな感じです(344頁))。↓

 「岩波文庫万葉集』についての覚え書」もあると便利ではないかと・・・まあ、よく考えたら、新大系・文庫両方を参照すればいいだけの話ですけど!(結局、実は『万葉集評釈』についての記事になった気がする)

万葉集の時空

万葉集の時空

 それにしても、空穂の古典評釈(万葉集評釈、古今和歌集評釈、新古今和歌集評釈、伊勢物語評釈)は、どれも素晴らしいですね。
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