たった一度だけ、ちらと君を疑った

 テイオー。私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は有馬記念で、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。
 記帳に行ってきたよ。↓不世出の顕彰馬なのに、何とショボい・・・今度はちゃんと競馬場に行こう。献花台もあるようだから、リンゴでも持っていくか。

(どんな言葉をかけたかは秘密)
 回想。訃報を目にした時、一瞬体がこわばり、一気に全身が紅潮したのを感じましたが、不思議なことに号泣はしなかった(有馬記念の時はワンワン泣き喚いたのに)。枕に顔を埋めると涙が止まらなくなったけど。
 しばらく頭がぼーっとして変な感覚だったのですが、「いや、『死んだ』というだけで、さすがにまだ骨にはなっていないのでは。また復活するのではないか。いつものように。テイオーらしく。火葬の直前に突然目を覚まして『心臓が止まったくらいでオレを死人扱いするな!』とか言って、オレらをまた驚かすんじゃないか」と、ふと思いついた。
 そして、その復活の様子を想像したら、我ながらおかしくて、思わず笑ってしまったよ。
 予感していたよりも、立ち直りはずっと早かった。
 でも、その理由も何となくわかる。トウカイテイオーはやはりまだ生きているのだ、私の中で。こう書くと、陳腐な物言いだと辟易するかもしれないけど、それはこういうことだ。私たちは、もちろんテイオーの姿形や血統、スタイル、立ち居振る舞い、その強さに惹かれたわけだけど、しかし、実際に大いに共感し心を揺さぶられたのは、浮き沈みの激しかった競走人生を通じてテイオーが体現した何か(うまく説明できませんね。不撓不屈、とか、そういうことに近いわけだけど、良い表現がない)だったわけだ。それは、あの馬は良かった、この馬は速かった、という「思い出」以上の何かなのであって、大袈裟にいえば「テイオーイズム」といったものだ。
 現に、以前のエントリにも書いたように、私は1993年12月26日テイオーの雄姿を見て生まれ変わった。この生き方を根本的に放棄しない限り、テイオーは私の中で生きている。ちょうど、過去の思想家や宗教家が、肉体は滅んでも、人々を励まし支え続けているのと同じように。
 そう考えると、それほど寂しくはないよね。