冷やし馬――『遠野物語』と『今昔物語集』巻二十五・源頼信朝臣男頼義射殺馬盗人語第十二

 『文学』誌2014年1・2月号に掲載された日高昭二「背負う馬の文学史」を拝読していたところ、

 井上ひさしの『新釈遠野物語』(筑摩書房、一九七六)に「冷し馬」の一篇がある。(中略)
 「冷し馬」とは、馬が沼や海に入って体を冷やすことをいうが、柳田の『遠野物語』の中にも、その〈六十七〉話にこの言葉がでてくる。それは、安倍貞任の伝説をいくつか述べたあとのつづきとして語られているが、短い記述なので引用しておこう。

阿部貞任に関する伝説は此外にも多し。土淵村と昔は橋野と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平らなる原あり。其あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷せし所なりと云ふ。貞任が陣屋を構へし址とも言ひ伝ふ。景色よき所にて東海岸よく見ゆ。

(10〜11頁)
 主題は、井上ひさし『新釈遠野物語』と、そこから人と馬の異類婚譚に展開する話なので、「冷し馬」の習俗については以上のように本当に軽く触れられている程度なのですが、これについていつも想起されるのは、私の大好きな、そしてあまりにも有名な、『今昔物語集』の馬泥棒の話です。
 もうみなさま御承知のエピソードでしょうけど、頼信に贈られる名馬を見て惚れ込んだ一人の馬盗人が東国からずっと後をつけて都までのぼってきて、頼信の厩舎に馬が入れられたその夜、雨にまぎれて馬を盗みだします。頼信・頼義父子はただちに追跡を開始する。問題はその後の場面。

此ノ盗人ハ、其ノ盗タル馬ニ乗テ、「今ハ逃得ヌ」ト思ケレバ、関山ノ喬ニ水ニテ有ル所、痛クモ不走シテ、水ヲツフ/\ト歩バシテ行ケルニ、頼信此ヲ聞テ、事シモ其々ニ本ヨリ契タラム様ニ、暗ケレバ頼義ガ有無モ不知ニ、頼信、「射ヨ、彼レヤ」ト云ケル言モ未ダ不畢ニ、弓音スナリ。尻答ヌト聞クニ合セテ、馬ノ走テ行ク鐙ノ、人モ不乗音ニテカラ/\ト聞ヘケレバ、亦頼信ガ云ク、「盗人ハ既に射落テケリ。速ニ末ニ走ラセ会テ、馬ヲ取テ来ヨ」ト許云懸テ(以下略)

新日本古典文学大系今昔物語集 四』528〜529頁)――この盗人は、盗んだ馬に乗り、「逃げることができた」と思ったので、逢坂山のわきに水のある所を常歩(なみあし)でばしゃばしゃと水音をたてて馬を歩ませていくと、頼信はこの音を聞いて、もともと示し合わせていたかのように、暗くてそこに頼義がいるかどうかもわからないのに、「撃て、あそこだ」と叫び、その言い終わらないうちに弓の音がした。矢の的中した音にあわせて、馬が走って行く鐙が、人の乗らない音でからからと聞こえたので、また頼信は「盗人はもはや射落とした。すぐに馬のもとに走り、取ってこい」とばかり命令して・・・

・・・一人の生徒から「追われている身でありながら、なんでわざ/\歩きにくい水の中を歩ませていったのか納得できない」という質問が出た。

中村格「今昔「世俗の部」説話の担い手たち」『日本文学』第21巻第7号、1972年8月。62頁)
 もっともな疑問です。そして、この答えとして中村氏は「冷し馬」の習俗を生徒たちに示唆するのです。

 一般に、馬を長時間走らせたり、労働させたりしたあと、川に入れるという習慣がある。それはなぜだろうか。
 ひとつには馬の体を清めるためであり、いまひとつには、酷使して火照ってきた蹄を冷やしてやるためだともいわれている。事実、このような場合、馬はいかにも気持ちよさそうに水につかっているものである。(中略)
 ここまで話し合ってきて生徒たちは、ほかでもない、馬をいたわるその行為が水音を生じさせ、その水音が、暗闇の中を逃走するおのれ自身の位置を相手に知らせる結果となり、たちまち馬盗人は射殺されてしまう……というリアルな語りくちに気づいた。やっとの思いで手に入れた馬に対して、最初に示した愛情が、即、自分の命取りであったというわけである。

(前掲63頁)異論も出るかもしれませんが、私は前からこの説明に深く共感しています。
 日高氏の論文では今昔に言及されず、中村氏の論文では『遠野物語』に触れられていないので、あえて記事にして注意をうながした次第です。