辞書の語義説明をそのまま用いるのは「語釈」ではない

 注釈書や論文を拝見していると「語釈」と称して『日本国語大辞典』や『大漢和辞典』といった辞書の語義説明を引用してそれっきりということが往々にしてあります。

〇大乗経 大乗の教えを説いた経典(日国大)。

 たとえば、このような「語釈」に何の意味があるのか。いろいろな考え方があろうかと思いますが、もし私が指導している学生がそのようなレジュメを出してきたら即刻やり直しを命じます。大漢和の語釈は誤っている、日国の初出例よりも古い例だ、という指摘ならまだ有意義なのでしょうけれども・・・
 あえて書名は伏せますが、昨年刊行された注釈書がその点ですごかった。本書は校異が詳密で、補説にも見るべき点が少なくないように見受けられるのですが、語釈については凡例で、

語義は、以下のものを参照し、引用・摘記する場合は略称をもって示した。日国大(『日本国語大辞典第二版』小学館。なお、縮刷版も適宜参照した。略称、日国大縮刷版)、時代別(『時代別国語大辞典上代編』三省堂)、字通(『字通』平凡社)、字訓(『新訂字訓』平凡社)、大漢和(『大漢和辞典 補訂版』大修館書店)、広説(『広説仏教語大辞典』東京書籍)。このほか、適宜辞書辞典類を参照した。いずれも、簡潔を旨としてもとの表記を改めた。(以下略)

とあったのが驚きました。ここまで堂々と書かれてしまうと・・・
 注釈というのは、「諸引文証、皆挙先以明後、以示作者必有所祖述也」(「両都賦序」の「或曰、賦者、古詩之流也」に対する李善注)だけでなく、「志為訓釈」(「進五臣集註文選表」)も必要でしょう。しかし、「引文証」もせず、「訓釈」も他人(辞書)任せだとしたら、どうしてそれを語釈と呼べるのか。
 それらに全て目をつぶったとしても、本書で見逃せないのは『字通』(ついでにいえば『字訓』)を参照していると明言していることです。まさかの『字通』!なぜ、『字通』。

 たとえばここで「慌」や「樹」に対して大漢和ではなくてあえて『字通』を参照したとする、その理由が知りたい。