- 作者: 折口信夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/03/17
- メディア: 文庫
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最高に純粋だった。ということはつまり最高にバカだった。
(483頁)
(492頁)
編集部は何も意見を言わなかったのでしょうか。褒めているのだからいいのだ、とでも?
この「解説」で延々と繰り広げられているものは素人談義のように読めます。
小鳥のようにおしゃべりだったり、リスのように落ち着かない子、じっと折口をにらんでいたへそ曲がり、すねっ子。なつかしい「八十人ばかりの子ども」の一人一人の顔を思いうかべ、その顔を相手に折口は訳したという。
ああ、だから解りやすいんだな。だから本いっぱいに、「少女たちのおかっぱさんに垂げた髪」(巻七・一二四四番)「おっかさん」(巻三・三三七番)「おい鎌公よ」(巻一六・三八三〇番、下巻)「真青な人魂さんよ」(巻一六・三八八九番、下巻)などの、暮らしの匂いのする暖かい声が響くんだな。学や知識をてらう、硬さや権高さがないんだな。
(491頁)このようなことは本書に目を通した読者はみな抱く感想のはずです。折口の良き理解者である持田氏の本領は如上の無用な指摘をすることにあるわけがないのに、なぜこうなってしまったのか。
おそらく、解説者一人を批判するのは酷な話であって、本書を岩波現代文庫の「文芸」ジャンルに入れた出版社の責任もある。
これだけは折口の名誉のために言っておきたいのですが、『口訳万葉集』は同じ岩波現代文庫(文芸)に入っている田辺聖子『現代語訳 竹取物語 伊勢物語』等とは、到底、同列に置けない本です。『万葉集』研究史のなかで『口訳万葉集』が果たした役割(そして、今なお読むべき意義)を説明しなければ、読者にとっては何の益もない「解説」でしょう。
たとえば、中大兄皇子(後の天智天皇)の三山歌(巻一・13)。
13香具山は畝傍男々しと、耳梨と相諍ひき。神代よりかくなるらし。古も然なれこそ、うつそみも、妻を争ふらしき
昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝傍山を男らしい山だ、と奪い合いをしたというが、(以下略)
(14〜15頁)
奈良の香具山・耳梨山・畝傍山が絡む恋の三角関係は、どの山がどの山をめぐって争っているのか、そしてそれぞれの山の性別は何なのか諸説紛々としていていまだに定説を見ないのですが、折口は、
【畝傍山(男)をめぐって、香具山(女)と耳梨山(女)が争っている】
と解釈しています。このように言い出したのはおそらく折口が最初でしょう。興味深い。
しかし、「香具山は・・」と歌い出している以上、詠者の中大兄の視点は香具山にあるようにも思えます。その香具山が女でいいのだろうか、また、万葉集では三角関係はたいてい一人の女をめぐって二人の男が争うパターンだ・・・等々、読者は折口とともに歌を真剣に考えていかねばならない(この歌に関しては、おそらく、古代人の常識を失った私たちは永遠に正解がわからないだろうけれども・・・)わけで、そういったことを「解説」で指摘すべきではないのか。
あるいは、巻三・377。これは湯原王の「宴席歌」の二首目。
377青山の峯の白雲、朝に日に、常に見れどもめづらし。我君。
お客様方、御紹介致しますが、この女は、青山の峯に懸っている白雲のように、毎日毎朝見ていても、いつも珍しい心持ちのする女なんです。諸君。
(144頁)
結句は「めづらし我君(わぎみ)」ですが、ほとんどの注釈書は「めづらし」を「我君」にかかる連体修飾語として理解しています。つまり「素晴らしいみなさま(招待客)」と。しかし、折口は「めづらし」で切って、「我君」は呼びかけだと捉えている。376歌(「あきづ羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君」)に出てくる「袖振る妹」の紹介が招待客に対して続いていると解釈しているわけです。危うさも感じる解釈だが、大変興味深い。『万葉集全注』はこれを支持しています。
折口にせよ、窪田空穂にせよ、あるいはそれ以前の江戸時代の国学者にせよ、『校本万葉集』もなく、現在のような国語学の研究成果を参照することもなかった人たちですが、私たちよりはるかに古典和歌に親しんでいた人だ。その人たちの解釈にはたまにはっとさせられることがある。そのことをもっともっと「解説」で指摘することが読者のためでもあると思うのです。