回文歌・続
先日、現存最古の回文歌を紹介しました(日本最古の回文 - Cask Strength)が、折りしも、つい先週に刊行された、
『和歌をひらく 第二巻 和歌が書かれるとき』(岩波書店 2005年)
に「書くことの呪術」という浅田徹氏の論文が収録されており、その第一節が「回文歌――円環する言葉」。
回文ファンは必見です。というか、全体的に大変おもしろかったので、神秘主義がお好きな方は是非ご一読を。
まず最初に、回文歌を取り上げる。上から読んでも下から読んでも同じになる回文は、現在でも根強いファンのいる遊びであるが、古典時代にも途絶えることなく試みられていた。回文の文献的初出は早く平安時代に遡り、遊びとして作られたものと思われる。江戸時代には「回文師」という専門家の存在が確認されるほどである。
紹介されているのは、藤原隆祐の三首の回文歌。
熊野社に奉りける百首歌中に、廻文歌を、
海上眺望
A なが遠き方は南のすごきとき小簾の南は高き音かな
十禅師に奉りつる百首の上に長歌の字を置くに、「よ」文字(「み」の誤りか―注)に当たりて侍るに、廻文、
寄神祝
B 御垣よりかざす枝には木の花は軒端に絶えずさかりよき神
相伝してしり侍る所、思ひがけず替はるやうに聞き侍りしかば、備後吉備津彦宮に奉りし百首中に、同じく廻文歌を、
慶
C 日ごろ世の乏しきすみか望むらむそのかみ過ぎしもとのよろこび
月中に事なきやうに聞きなし侍りき。
この三首について、浅田氏はこれらが神社への奉納歌であることに着目します。
Cに見るように、神への和歌の奉献という行為は、本人の何らかの具体的な祈りが籠められているのが普通である。回文歌を作ることはそのような祈りの行為と密接に結び付いているようだ。B・Cにおいては回文歌が百首の末尾という目立つ位置に置かれていたらしいことも留意される。神に見てもらいやすい場所に置いている、という言い方もできるかもしれない。
すなわち、隆祐にとっては、回文は遊びではないのである。歌意が判然としないのも、単に技量が低くてうまく作れなかったからではあるまい(うまく作れないのがいやならば、わざわざ奉献歌の中に入れなければよいのである)。回文になっていること自体が大事だったのであって、内容はおぼろげでも良かったのではあるまいか。
回文歌が祈りと結び付いている例としては、江戸時代に初夢を見るおまじないとして使用されていた「長き夜のとをの眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな」が著名である。この歌は文献的には室町時代に遡るらしい。江戸時代にはこの歌を摺りこんだ七福神の絵を枕の下に入れて寝るとよい初夢が見られるという俗信があった。意味は突き詰めるとはっきりしないが、夢の中を漕ぎ渡っているようなたゆたう調べを持ち、しかも祝意を感じさせる歌である。
なぜ回文という遊びが、祈りやまじないに親和性を持つのだろうか?それは根本的には、普通でない形を持つ言葉であることに起因するものと思われる。回文は最後まで読むとまた反転して元に戻っていく、円環する言葉なのだ。始めも終りもないその形に、呪的なものを感じ取るのはそう不思議なことでもなかろう。
そういえば、回文というのは日本語だからこそ可能な言語遊戯であって、英語などではまずマトモなものがない、と考えられがちですが、そんなことはなくて、例えば、
A man, a plan, a canal....Panama!
(男、設計、運河――パナマ!)といった名作もありますし、英語の場合、「語単位」による回文作りも盛んです。
You can cage a swallow, can't you? But you can't swallow a cage, can you?
(ツバメ(swallow)を籠に入れることはできる。そうだろ?でも、籠を飲み込む(swallow)ことはできまい。そうだろ?)
しかし、呪性というか神秘性を帯びてくるのは、日本の回文に特有ではないかと感じます。