遊仙窟校注
最新の『遊仙窟』注釈が大陸より届きました。(ISBN:9787101074024)
ちょっとすごいことになっていて、『遊仙窟』本文が36頁であるのに対して、その注釈が頁数にして10倍の量の394頁分もあるのです(!)「前言」で校注者の李時人氏が「本書採用「詳注詳校」的形式」(前言58頁)というのは誇張ではありません。
昔の学者の「浅釈」とか「略解」というのは謙遜である場合が多い。最近の中国の注釈書はむしろ逆にちゃんと「浅釈」「略解」に書名を変えて読者に警告すべきものが目立つというなかで、本書の詳細な校注は異彩を放っています。有力な注釈書を得ました。
しかし、なんというのか、注釈は必要にして十分なものであるべきだと思います。注釈は博捜が故に尊からずというわけです。
たとえば、本書は『遊仙窟』の語句に対して、しばしば複数の先行もしくは同時代の用例を挙げます。3つ4つ挙げている場合もあります。一例として、「人跡罕及」の「人跡」。「人跡」は今でも「人跡未踏」という熟語で使いますし、難解な語では全くないのですが、
漢馬融《長笛賦》:「是以間介無蹊、人跡罕到。」晋張協《雑詩》之九:「渓壑無人跡、荒楚鬱蕭森。」《全唐五代小説》外編巻二二《会昌狂士》:「有工人貪賞、窮幽捫険。人跡不到、猛獣成群。遇一巨材、径将袤丈、其長百余尺、正中其選。」亦作「人蹤」。唐柳宗元《江雪》:「千山鳥飛絶、万逕人蹤滅。」崔蒞《撃柝賦》:「厳城暮兮絶人蹤、君門深兮開九重。」
(48頁)「人の往来がない」という例をここで三つ(「長笛賦」「雑詩」「会昌狂士」)も挙げた意図は何でしょうか。最初の「長笛賦」の例(および『文選』の注)で十分でしょう。しかも、この後に「亦作「人蹤」。」(「人跡」は「人蹤」とも書く)と付け加え、「人蹤」の用例を二つ挙げるのです。「人蹤」に言及しなくてはいけなかった理由はよくわかりません。これは「詳細」ではなく「冗長」です。こういう例が非常に多く目について仕方ない。
陸象山の読書論を思い出します。
何須得伝註。学者疲精神於此。是以擔子越重。
(象山先生全集、巻35)――なんぞ伝註を須ひ得ん。学者、精神をここに疲らす。これ擔子いよいよ重きを以てなり。(どうして注釈を用いようか、用いる必要はない。学者は注釈で精神を疲らせてしまう。荷物が重くなるからだ)