内裏炎上後に後深草天皇の病気が奇跡的に治った件

 巷間には「日本史の真実」とか「日本史のタブー」といったトンデモ系の書籍・ウェブサイトが溢れていまして、よくあるのが「〇〇別人説」「〇〇すり替えられた説」。そういった方々のためにネタ投下です。後深草天皇別人説というのはいかがでしょうか?新説でなかったとしたらゴメンナサイ。
 宝治3年(建長元年、西暦1249年)2月1日、皇后の御所からの出火によって内裏が焼失するという事件が起きます。時に陛下、数えで7歳。足腰に重篤な持病がある(「御腰などのあやしくわたらせ給ふ」、後述)ので生死に関わる事態でしたが、「二位殿」という女房によって救出されます。その経緯は『弁内侍日記』に克明に記録されました。

・・・御番に公忠の中将候ふが、まことに騒ぎたる気色にて、「勝事の候ふ。皇后宮の御方に火の」と言ふ。・・・匂当内侍殿、やがて夜の御殿へ入りて、剣璽取り出だし参らす。油小路の門の方へ行く。御所も、二位殿抱き参らせて、中納言典侍殿、宮内卿典侍殿など、みな続きて参り給ふ。

――当番であった公忠の中将が、大変あわてた様子で、「大変でございます。皇后宮の御殿から出火です」と言う。・・・匂当内侍殿が早速夜御殿に入って、匂当は剣、私は璽をお取り出し申し上げる。油小路の門の方へ避難する。帝は二位殿がお抱き申し上げて、中納言典侍殿、宮内卿典侍殿など、みな続いて来られる。(新編日本古典文学全集『中世日記紀行集』196〜197頁)
 なんと、この事件をきっかけに天皇が立ち上がれるようになったと『増鏡』はいうのです。

・・・いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏やけけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。

――[天皇は]たいへんけだかくいらっしゃったが、ひどく小柄で、また御腰などが普通の状態でおありにならなかったのは残念な御事であった。御幼少のころには、もっと御病気がひどくいらっしゃったが、閑院内裏が焼けた騒ぎにきちんとお立ちなさったので、内裏の焼けた情けなさなどは何でもないことで、この御腰がなおったことばかりを、どなたも喜ばしく思われたのであった。(講談社学術文庫『増鏡 上』280〜282頁)
 後には「春のころ行幸ありしには、御門も御鞠に立たせ給へり」(『増鏡 中』41頁)と、蹴鞠ができるまで健康になります。
 これは医学的に説明が可能であることかもしれませんし(以下、作家のみなさんにお任せする)