福永光司『荘子 内篇』について

 2011-08-07
 私は中国思想の分野に暗いので、福永イズムが前面に押し出されている『荘子 内篇』(asin:4062920581)が専門家の間でどのような評価を得ているのかよく分かりませんが、学ぶところが多い名著の一つとして必ず参照すべき評釈の書として推薦しています。
 味わうべきところの一例として、たとえば「大宗師篇」、子桑戸の弔問に出かけた子貢が孟子反と子琴張にあしらわれた後に孔子と会話する場面で孔子は「彼[孟子反と子琴張]は方の外に遊ぶ者なり」(彼遊方之外者也)と言います。「方外之士」(俗世間の規範を超越した人)といった表現の典故となる有名な箇所ですが、ここをどう考えるべきか。

確かに方外者は彼が世俗を超えるという意味では一種の超越者である。しかし方外者は常にそのまま荘子的超越者なのだろうか。換言すれば荘子的超越者とは全く方外者の謂いにほかならないのであろうか。この点を明かにするためには、荘子における超越者の性格を今ひとたび確認する必要があるであろう。


荘子において、超越者とは自由人であり、自由人とは一切の対立を、従ってまた内と外との対立をも超える存在でなければならなかった。そして内と外との対立を超えるとは、内でもなく外でもなく、しかも内でもあり外でもあることにほかならないから、真の超越者とは、実は方外であるとともに方内でもある存在、換言すれば"無方の人"というのでなければならない。"無方の人"にして初めて真の自由人すなわち超越者であり得るのである。もし方外の立場を固執すれば、その固執は方内の立場に束縛されるその不自由と同じものとなるであろう。だから、ここで孔子が自己を方内者とよび、荘子的超越者を方外者とよぶとき、それはあくまで一おうの区別であって、荘子的絶対者はこの区別にかかわらず、厳密には方内と方外をともに包み越える"無方の人"なのである。「方内」に対する「方外」とは、このような限界をもつ概念にほかならない。そしてこのような「方外」の概念の限界性を十分に理解するとき、我々は始めて斉物論篇や人間世篇の所説に一貫する荘子的超越者の本質を把握することができると思うのである。

講談社学術文庫、323〜324頁)
 このような理解を示唆したものは過去にもありますが(参照、漢文大系『荘子翼』)、これを明確なかたちで現代の私たちの眼前に示しだしてみせたのは福永氏版です。そして、これを踏まえれば、中国社会において大乗仏教の在家主義、「向下行」あるいは「不二」といった考えが割とすんなり受容されたことも納得できるわけです。

利用の注意点

 以下に述べることは注意深い読者にとっては無用の指摘ですが、本書には必ず気をつけなくてはいけない点が一つあります。「訓み下し文」の部分です。一例として、冒頭近くの例を挙げておきましょう。

野馬と塵埃と生物の息を以て相吹くと、その遥かなる高みにひろがる天の蒼蒼たるは、其の正の色なるか、其の遠くして至極まる所なきがためか。其の九万里の上よりして下を視るも、また是くの若く蒼蒼たらんのみ。

(16頁)
 強調部(「その遥かなる高みにひろがる」「九万里の上よりして」「蒼蒼たらん」)は原文にはない表現です。訓読調でないものもある(上の例もそうですね)ので「おや?」と気づくこともありますけど、そうでなければ原文と突き合わせない限り見逃してしまいます。現代語訳ならともかく、読み下しとされる箇所でこれをやられると厄介ですよね。引用の際には十分に注意するということと、他人が福永氏版の読み下し文を利用したと述べている時は、少し身構えたほうがいいということです。