菖蒲に八橋(3)

 業平が見たであろう八橋の景観は、かなり早い段階で亡びてしまったとされます。中世に行なわれた治水と開墾で湿地帯がなくなり、水辺の植物である杜若も、そして当然ながら橋も廃れました。
 しかし、後世の紀行文学や伊勢物語絵などを目にするにつけ、衰亡がかえって希求の念を強くして、八橋が人々の心をとらえて離さなくしてしまったということに思いを致します。
 偶像化された神秘的な八橋と、風情のない八橋の実景との対比によって愛惜を語るのが一つの類型でした。十一世紀の『更級日記』の「八橋は名のみにして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし」という一見そっけない描写や、十三世紀の『海道記』の「橋柱ヨ橋柱、オノレモ朽ヌルカ」という痛恨の叫びはよく知られています。
 失われたことがわかっていても磁石のように吸い寄せられてしまう。そのような八橋の魔力は近世でも衰えず、林羅山も、

三河国八橋は杜若の名所なる事、在中将の歌にてかくれなし。今岡崎より池鯉鮒にいたる道より北の方一里ばかりに、それなんむかしの八橋なりとて、所の人はるかに指をさしてをしへ侍る。久敷田となりて今は杜若なし。三四年前余が作りける詩にも、古人遺跡鉄鑪歩。只有三河杜若名となん。
 六々歌中第幾仙。風流千歳慕幽玄。世間一瞬皆陳迹。杜若為薪沢作田。

(『丙辰紀行』)と、田畑広がる八橋で杜若を幻視します。