太安万侶墓誌についての小さな混乱を解決する

太安万侶墓誌 科学調査へ…古事記編さん1300年で

 日本最古の歴史書古事記」が編さんされて1300年になるのにあわせ、奈良県教委は新年度、編者・太安万侶(おおのやすまろ)(?〜723年)の銅製の墓誌重要文化財)の本格的な科学調査を行う。3次元レーザーで詳しく計測し、墓から一緒に見つかった木炭は放射性炭素年代測定を実施、墓誌が作られた年代の特定などにつなげたい考えだ。

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120221-OYO1T00738.htm

 大変結構なことですが、世間の一部で少し混乱が見られるようなので、いくつかの誤解について簡単に説明しておきますね。

「小治田安万侶墓誌」と「太安万侶墓誌

 「安万侶の墓誌」とだけ言ってしまうと、専門家からは「どっちの?」とツッコミが入ります。「安万侶」という同名の官人の墓誌は二つ出土していまして、明治45年(大正元年、1912年)4月に発見されたのは「小治田朝臣安万侶」の墓誌、昭和54年(1979年)に発見されたのが今回話題になっている「太朝臣安万侶」のものです。二人とも同時代、同じ官位(従四位下)、近い地域に葬られたので紛らわしいのですが、全くの別人です。小治田安万侶については、角田文衛氏「小治田朝臣安万侶の墓」(『平城時代史論考』)、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『日本古代の墓誌』を参照。

太安万侶」は『続日本紀』では「太安麻呂」

 これもよく誤解を招いているのですが、古代では同一人物の名前の漢字表記が異なっていることがよくあるので注意を要します。「大伴旅人」が「大伴淡等」(『万葉集』巻5・810前書状)になっていたり、「大伴多比等」(『続日本紀神亀元年2月4日)になっていたり、とか。「太安万侶」は墓誌と『古事記』序文ではこのような表記ですが、『続日本紀』では「太安麻呂」です(慶雲元年正月7日・和銅4年4月7日・霊亀元年正月10日・同2年9月23日・養老7年7月7日)。余談ですが、小治田安万侶も『続日本紀』では「安麻呂」ですね。

太安万侶の死去した日が『続日本紀』と墓誌とで一日のずれがある理由

 実は、墓誌に記されている埋葬日の干支にも問題があるのですが、私は暦学については知悉していないので、専門家はどう考えているのかを知りたい方は、奈良県橿原考古学研究所編『太安万侶墓』の「墓誌の日付・干支」、あるいはそれを要約した新日本古典文学大系続日本紀 一』補注1・八(242〜244頁)を御覧になってください。結論からいえば、『続日本紀』編纂者の側の誤りだろうということです。