「義を見てせざるは勇なきなり」はどこの国のことわざか ※追記があります
念のために最初に断っておきますが、鈴木都議のヤジは許容されるものではありません。その上で、の話です。
都議の「『義を見てせざるは勇無きなり。』日本のことわざですけれども」という発言を批判している人たちに訊いてみたいことがあるんですよね。「ことわざ」の定義は何ですか?そして、「日本のことわざ」の定義は何ですか?と。
今回は、たまたま、よく知られている中国古典の、たまたま、よく知られている一節が出てきたから、日本固有の表現ではないということに気づいて批判しているだけではないですか。
はっきり言って「ことわざ」の定義は難しいです。藤井乙男ですら「これ極めて困難の業たり」(『諺の研究』講談社学術文庫、17頁)と言っています。私にも明解はありません。しかし、本件に関わるところで結論を先に述べておきます。
「義を見て・・・」を、『論語』の一節の読み下し文を典拠として引用したものだととらえるのであれば、それは「日本のことわざ」どころか「ことわざ」ですらない。しかし、「義を見て・・・」はすでに『論語』の文脈から離れて、独立した警句・処世訓として日本語話者の間で何世代にもわたって伝えられ、人口に膾炙しているものである以上、これが日本のことわざではないと否定することはできない。むしろ、そうであればこれは日本のことわざであろう。これが広く知られている外国著作のなかの広く知られている一節なので、「日本の」ということに心理的に抵抗を感じるというのは理解できる。しかし、それは本質的な問題ではない。
こういったことになるでしょうか。
たとえば、「雨だれ石をうがつ」、これを日本のことわざとして認めることには、皆さまもやぶさかではないですよね。しかし、「義を見て・・・」を日本のことわざではないと言い切ってしまう方々はどのように思われますか。
「うう、consigliere がああ言っているということは、きっと外国由来なのであろう・・・ことわざ辞典を見るか・・・」となるのでしょう、きっと。そして、これが「泰山の霤(あまだれ)石を穿つ」(「泰山之霤穿石」)という、中国正史『漢書』枚乗伝の一節が典拠であることを学ぶでしょう。そして、その衒学的知識を人に披露して誇ったり、「『雨だれ石をうがつ』という日本のことわざ・・・」と述べる人の揚げ足をとったりするのでしょう。これを浅薄と言わずして、何を浅薄と言うのか。これも念のために断っておきたいのですが、文献を博捜してことわざの由来を調べること自体は別に浅薄ではありません。井沢長秀『本朝俚諺』、貝原好古『諺草』等を見よ。
「豚に真珠」はいかがですか。『新約聖書』マタイ伝6:6が典拠です。ところが原文は「また、あなたがたの真珠を豚に投げ与えてはならない」とありますね。「豚に真珠」という形に整えてことわざ化したのは一体誰でしょう。
実は今回の記事は鈴木都議に助け舟を出すつもりで書いたわけではありません。この一件を機に、「豚に真珠」にまつわるエピソードを思い出したからでした。この「豚に真珠」が聖書に由来する表現であることを知らなかった同級生に対して、とある教員が面前で「学がない」などと罵倒したことがありました。極めて不当な言いがかりです。「豚に真珠」は、もともと聖書に由来するかもしれないが、我が日本のことわざだ。
【追記】多くのコメントありがとうございました。しかし、最後の部分が言葉足らずで、私の意図と全く逆に受け取った人たちが一部いらっしゃったようです(あるいは、あえて意地悪く曲解している人たちもなかにはいるようですね)。わたしは、「〜はA国に由来する表現だから、B国のことわざというのはおかしい」という偏狭さを批判したのでした。「A国に由来する表現だろうが、それが独立してB国にことわざとして流布すれば、B国のことわざとして認定してよいだろう」というわけです。しかも、それが同時にC国、D国、E国・・・に流布していれば、それはC国、D国、E国のことわざでもあるでしょう。最後に、「豚に真珠」は日本のことわざだ、とだけ言ってしまったために、このことわざは日本以外のことわざではない、と受け取られてしまったようです。どうしてそんなことになるのか。本記事の流れでそのように理解される余地はないはずだと思ったのですが(実際、正確に読み取ってくださったと思しいコメントも多いです)、改めて読み返してみると、やはり補足する必要だと感じた次第です。失礼いたしました。