「毛を茹(し)く」

 いつも楽しく拝読しているなぶんけんブログ。「茹でる」のナゾ - なぶんけんブログもおもしろかったです。

儒家経典の『礼記』では「飲其血、茹其毛=まだ火を使えない頃の人類が肉を生で食べる様子」というかなり血なまぐさいイメージで使われています。

 この「飲其血、茹其毛」はちょっとした思い出のある一節。
 これを典拠とする文が『文選』の序にあります。「冬穴夏巣之時、茹毛飲血之世、世質民淳、斯文未作」です。意味の通りやすい、別になんてことはない文ですね。
 ところが、我が和刻本ではこの「茹毛」を「毛を茹(し)く」あるいは「毛を茹(し)きゐにし」と訓んだりします。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544018/5
 この訓はどうやら、呂延済注の「茹、蘊也。言、上古巣居穴処、飲食血肉、蘊藉毛羽」に基づくようで、つまり、「茹毛」を「羽毛を敷いて」あるいは「羽毛を敷いてくるまって」と理解したらしい(「蘊藉」は「くるまる」の意)。
 しかし、このよみかたは明らかにおかしい。なぶんけんブログが指摘するように、「茹」は食べるという意味で(『爾雅』釈言)、典拠である『礼記』の正義にも「『飲其血、茹其毛』者、雖食鳥獣之肉、若不能飽者、則茹食其毛以助飽也」とある通りです。
 「ゆでる」といい、「しく」といい、「茹」字をめぐっては怪しい訓みが多いですな!
 五臣注はいい加減なところが多い、というのはよく言われることですが、『文選』の冒頭部分でこのザマなので、院生だった私もさすがに呆れました。それと同時に、我が国の訓点も素直過ぎるというか少しトホホだな・・・と苦笑いしたのですがw
 なお、当時は不勉強で知らなかったのですが、ずっと後になって、このことはすでに近藤光男氏「学海堂弟子『梁昭明太子文選序注』について」(『吉田教授退官記念 中国文学語学論集』東方書店、1985年)において取り上げられていることを知りました。こちらもとても勉強になる論文(『文選李注義疏』に民国18年の自序本と、民国57年の劉拓識語本があるのを知ったのも本論文でした)なので、ご参照ください。