不在の存在

「存在」とかなんとかという難しいことはよく分かりませんが、このを読んで、子供の頃を思い出しました。ひょっとしたら、私だけかもしれないけど、子供心に、
  There is nobody.
あるいは
  Nobody is here.
は、不思議に思ってました。Nobody(無人)が be(存在)って言われてもねえ・・・。
でも、「いない人が、いる」にせよ「○○さんが、いない」にせよ、「存在の否定」の表現というのは、修辞法としては興味深い問題を提供しています。一番わかりやすいのは、佐藤信夫『レトリック感覚』の説明。

さて、私たちにとっては「ピエールがいない……」という言語表現が問題だ。もう、レトリカルな肝心の点は明瞭である。ピエールがいない……という否定表現は、ピエールの存在を消し去るどころか、いないピエールの姿をありありとえがき出すのである。ピエールを言語によって消去する方策は、否定することではない。何も言わないことであろう。(中略)いったん「ピエールがいない」と言ってみた途端、ピエールはその否定によって、満たされぬ期待のように、裏切られたまなざしの先の欠如として、虚の姿をあらわすだろう。

そりゃそうですね。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。       (中原中也『在りし日の歌』「北の海」)
(中略)人魚は、否定されることによって、《そこにいない人魚》として姿をあらわした。はじめから人魚など気にもならない人は、決して「人魚ではないのです」などと言いはしない。(中略)その、発見された人魚は、無論いない。そして、いないものとして造形された人魚たちが、いなくなることによって、あとに「浪ばかり」が残ったのであった。満たされぬ背景のように。

こういった評釈のやり方は、いろいろと応用が利くので、覚えておいたほうがいい。