木簡から探る和歌の起源―「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代

 新連載として、週に一回程度ブックレビューでもしようかと思いたちました。立派な書評サイトはほかにいくらでもあるので、枝葉末節を取り上げる書評になる予定です。まあ、気ままにやっていきます。

木簡から探る和歌の起源―「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代

木簡から探る和歌の起源―「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代

 「和歌」(私的な、個人的な文学作品)は「歌」(典礼の場で口頭でうたわれるために整備された韻文)を昇華して成り立ったもので、「歌」は「うた」(列島内で自然発生的に発生したもの)をとりこんで成り立った、というのが本書の主旨。その「歌」の典型が、木簡などに多く見られる「難波津の歌」*1でした。
 「難波津」木簡の歌句が一字一音で表記されるのは、典礼の場で口頭でうたうためであったという。難波宮跡から出土した例の「はるくさの・・・」木簡も、同じ用途であったと筆者は考えています。そのような席で用いられる木簡には一定の形式(長さ二尺、等)があったようで、同様の発見が今後も続けば、「歌木簡」という用語も定着するかもしれません。
 スリリングなのは、「うた」→「歌」→「和歌」という流れのなかで、日本語の韻文を書き表す最初の試みは、「歌」の段階での一字一音方式であったはずだという主張です(第五章、第六章)。
 これはかつて通説ともなっていた訓字主体表記先行説を完全に否定するだけでなく*2、仮名表記先行説をうちたてるもので、七世紀の資料として扱われてきた「人麻呂歌集」がたしかに七世紀のものだと認められるためには「[七世紀に訓字主体表記で日本語の韻文を書いたという]物証が不可欠」(131頁)だとして、「「人麻呂歌集」の表記が七世紀のものであるという立場から研究に取り組もうとする人は、百の議論の前に一つの事実の捜索に力を尽くしてほしい」と、痛烈です。

呪符としての「難波津の歌」

 さて、101頁に奈良時代後半のものと考えられる土器に「難波津の歌」と「九々八十一」が書かれていることが紹介されていて、「計算の九九がともに書かれていて「難波津の歌」が仕事の場に存在したことを示す徴証となる」とありますが、これは仕事上の「計算」の九九ではなくて、「呪文」の九九ではないでしょうか*3
 だとすると、「難波津の歌」もひょっとするとある種の呪力が期待されていた可能性があり、「一種のまじない」のように「難波津の歌」が書かれている須恵器(102頁)のようなものも、その線で考えることができるかもしれません。

蛇足

 木簡を実見し得る立場にある筆者は、しばしば公表されている釈文の訂正等を行ないます。一字一句をおろそかにしないその態度に学問の世界の厳しさを感じますが、本文中に、人名「王義之」(86頁)や、「新しき」のルビ「あたら」(87頁)、あるいは『千字文』の引用で「類及萬方」(90頁)等とあるのは、その態度からすると意外に感じます*4

*1:難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春辺と 咲くやこの花

*2:筆者は「研究史上の使命を終えたという合意が成り立った」(129頁)とする

*3:「九々八十一」は、「急々如律令」などとともに、もともと魔除けの呪文として使われた可能性が指摘されています。参照、和田萃「呪符木簡の系譜」

*4:正しくは、「王羲之」、「あらた」、「頼及萬方」。